大村藩 (Omura Domain)

大村藩(おおむらはん)は、肥前国彼杵(そのぎ)地方を領した藩。
藩庁は玖島城(長崎県大村市)。

略史
当藩の藩主である大村氏は古来よりこの地の領主であった。
天正15年(1587年)の豊臣秀吉の九州平定後もこの地を領することを許された。
キリシタン大名の大村純忠(有馬晴純の次男で大村氏の養子となった)の子で、初代藩主・大村喜前は江戸幕府開府後も引き続きこの地において2万7900石を有する領主として存続し、明治維新を迎えた極めて稀な藩である。

戦国時代 (日本)より長崎市を有し、南蛮貿易を通じた豊かな経済力を誇っていた。
しかし豊臣政権・江戸幕府と長崎は中央政権直轄領となり、貿易利潤を喪失することとなった。
立藩当初、藩主直轄領がわずか4000余石しかなく、逆に大村庶家一門15家の領地合計は8000余石にのぼっていた。
第2代藩主・大村純頼は慶長12年(1607年)、財源確保と藩主権力強化のため、「御一門払い」と呼ばれる一門の領地没収を強制的に実行した。

第4代藩主・大村純長時代の明暦3年(1657年)、城下北部の郡村3村より多数の隠れキリシタンが発覚し逮捕されるに至った。
「郡崩れ」と呼ばれるこの事件は、キリスト教禁教令より45年を経過した後のことであり藩の存亡を揺るがす重大事件となった。
しかし、純長の実父であり勘定奉行を務めるなど幕府の要職にあった旗本・伊丹勝長を通じ、幕府に対し即座に事件の実情報告を行い恭順したため咎を受けなかった。
これ以後、キリシタンへの徹底した予防と探索を行い、領民に対し仏教・神道への信仰を強化した。

最後の藩主である第12代藩主・大村純熈が藩主に就任した時代は幕末であり、藩論は佐幕と勤王に大きく分かれた。
文久2年(1862年)、純熈が長崎奉行となると佐幕派が台頭し、尊皇派はこれに対し改革派同盟を結成した。
元治元年(1864年)、純熈の長崎奉行辞任により逆に尊皇派が台頭した。
慶応3年(1867年)、改革派同盟の盟主である針尾九左衛門・松林飯山らが暗殺された。
逆にこの「小路騒動(こうじそうどう)」と呼ばれた闘争を契機に藩論が一気に尊皇倒幕へと統一され、在郷家臣団を含む倒幕軍が結成された。
以後、薩摩藩・長州藩などと共に倒幕の中枢藩の一つとして活躍した。

明治4年(1871年)、廃藩置県により大村県となった。
のち、長崎県に編入された。
大村家は明治17年(1884年)には子爵となり、華族に列した。
その後、倒幕の功が認められ、明治24年(1891年)には伯爵へと陞爵する。

勤皇派藩士の一人であった中村喜八郎は維新の功績により山桜を拝領する。
その先祖は江戸時代初期に漁村(大村藩の密貿易の港兼用)代官所の手代(算盤方)として郷士格村役人の家より出仕、後に勘定方藩士として取り立てられた。
喜八郎の祖父は長崎番十人組頭をし彼の孫の松雄が第二次世界大戦前夜の上海で特務機関員をしていた時にドイツ軍の親衛隊から迫害されていたユダヤ人の一団を三菱から徴用した船で米国へ逃がしたが、そのことは如何にもキリシタン大名を輩出した大村藩と開明的長崎港の歴史的縁を偲ぶ物語と言えよう。

歴代藩主
大村(おおむら)家
外様大名 27,900石
大村喜前(よしあき)〔従五位下、丹後守〕
大村純頼(すみより)〔従五位下、民部大輔〕
大村純信(すみのぶ)〔従五位下、丹後守〕
大村純長(すみなが)〔従五位下、因幡守〕
大村純尹(すみまさ)〔従五位下、筑後守〕
大村純庸(すみつね)〔従五位下、伊勢守〕
大村純富(すみひさ)〔従五位下、河内守〕
大村純保(すみもり)〔従五位下、弾正少弼〕
大村純鎮(すみやす)〔従五位下、信濃守〕
大村純昌(すみよし)〔従五位下、丹後守〕
大村純顕(すみあき)〔従五位下、丹後守〕
大村純熈(すみひろ)〔従五位下、丹後守 長崎奉行〕

[English Translation]