小槻氏 (Ozuki clan)

小槻氏(おづきし/おつきし)は、古代から続く公家の氏族。

鎌倉時代まで本姓である小槻氏を称すが、その後は分裂し、それぞれ家名(苗字)である壬生家壬生家(小槻姓)・大宮家大宮家(小槻氏)・虫鹿家・村田家を称した。

概要

第11代垂仁天皇の皇子、意知別命を祖とするとされる。

子孫は小月山公(小槻山君、おつきのやまのきみ)を称すが、その後875年、小槻今雄(小槻氏祖)に対して阿保朝臣の氏姓を与えられる。
子小槻当平(まさひら)のとき、本拠地であった近江国栗太郡小槻の地名にちなみ小槻宿禰に改め、以後禰家とも呼ばれた。
(栗太郡地域には現在も小槻大社・小槻神社が残る。)

以後小槻氏は代々官人としての職を担い、地下家筆頭の地位を得る。
鎌倉時代初期に小槻隆職子孫の壬生家壬生家(小槻姓)と小槻広房子孫の大宮家大宮家(小槻氏)に分裂。
両家は互いに地位を争うも、1551年大宮家が大宮伊治のときに断絶したため、それから後は壬生家壬生家(小槻姓)が明治維新まで官人の職を果たす。

他に庶家として、室町時代に虫鹿家が大宮家大宮家(小槻氏)から、江戸時代に村田家が壬生家壬生家(小槻姓)から分裂した。

維新後、壬生家壬生家(小槻姓)は男爵との爵位を与えられた。

職掌

今雄が左少史兼算博士の職を与えられた後、853年平安京に移住を許され、名実ともに官人となった。
以後小槻氏は算博士と史 (律令制)の職を世襲する。
996年小槻奉親が左大史(大夫史)に任命されたのを皮切りに次第に左大史に任ぜられることが多くなった。
11世紀頃小槻孝信の代からは世襲となって、弁官を取り仕切り官中を統轄する官務家としての地位を確立した。

他に、主殿寮や採銅所の管理などを行っていた。
また、宮中の文書の保管にあたっていたため、現在に「壬生家文書」が残る。

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