平田家 (Hirata Family)

平田家(ひらたけ)は、中原氏流の地下家の官人。
代々蔵人所出納(すいのう)を務めた。
江戸時代には局務押小路家・官務壬生家に次ぐ地下官人の家格を有した。

出納家の成立

中原祐安(清原頼業弟・中原師元養子)の子・平田職国(長兼)を祖とする。
ただし、狭義においては戦国時代 (日本)の平田職定(職国12代目の子孫)の子平田職清及びその養子平田職忠の系統を指す。

この系統は平安時代末期より代々の当主は蔵人所出納に任じられ、途中他氏が任じられることがあったものの、室町時代後期以後は世襲となっていった。
また、内蔵寮年預や右近衛府庁頭を兼ね、人物によっては内豎所年預や院庁の主典代も兼ねた。
出納は本来は蔵人所のみの金品の出納を担当していたが、戦乱期の朝廷機構の衰退に伴って諸官司が機能停止していく中で、その職掌は朝廷各部門の出納業務へと拡大の方向に向かっていった。

出納家の上昇

平田職忠(天正8年(1580年)-万治3年(1660年))は、幼くして蔵人所に出仕して、舟橋秀賢に有職故実を学んだ。
後陽成天皇にその才能を寵愛され、地下官人では異例の院昇殿が認められ、従五位下近衛府から正四位上大蔵省に至った。
また、息子平田晃海は天海の門人であった。
そのことから、江戸幕府と深く関係を結ぶに至った。
江戸幕府は朝廷秩序の回復に関与することで朝廷の統制を行うことを意図しており、朝廷儀式の再興を望む朝廷側との思惑の合致に伴い、地下官人制度の再編が行われた。
その結果、局務押小路家が外記方、官務壬生家が官方、そして出納平田家が蔵人方の地下官人を統率して奉行・職事の指示に従って傘下の地下官人を率いて儀式のために必要な事務・雑務を行うことになった(「禁中諸政諸司等作法事」)。
この結果、蔵人所は勿論のこと、図書寮や主水司、内蔵寮などの地下官人は出納の支配下に置かれることになった。
また、これに伴い平田家の知行高が31石余りに引き上げられて、地下家第3位の地位に上昇した。
これは、長年「両局」「地下官人之棟梁」と称せられ、地下官人の支配を一手に引き受けてきた押小路家・壬生家の反感を招いた。
特に内蔵寮など自己に属していた官人の多くを失った壬生家の反発は強く、寛永11年(1634年)に出納平田職忠と官務壬生孝亮との間の相論に発展した。
壬生孝亮はこの中で近年出納が諸社に対する官幣を行い、陣儀に参仕していることは「旧儀」に反すること、出納は本来凡卑の家柄であるにも関わらず身分不相応の知行を得て、衣冠束帯を身に付けており、両局と並肩しているのは「違乱」であると主張した。
これに対して職忠は現在の出納の職掌・待遇は慶長年間の「新儀」であることは認めた上で、これは東照大権現(徳川家康)が朝廷再興のために定めたものであり、局務や官務はこれに従うべきであると反論した。
この相論は摂政一条兼遐や京都所司代板倉重宗らによって審議されたが、途中で壬生孝亮による売官問題が発覚、孝亮は解官・追放となったために有耶無耶に終わり、問題は先送りとされた。

実は出納の地位上昇と壬生孝亮の追放は表裏一体の関係にあった。
戦国時代 (日本)の皇室衰微期に多くの地下官人が没落し、織豊政権による平和回復によって地下官人の不足を補うために両局が替わりになる地下官人を取立て強力な支配関係を結び、場合によっては金銭的な動きも存在した。
その結果、両局が地下官人を家臣化して事実上の私物化に成功した。
江戸幕府と朝廷上層部は朝廷秩序の回復と運営の効率化の実現の観点から両局のこうした動きを警戒し、出納に官務・局務に准じる権限を与えて両局を掣肘しようと図ったものであったとされている。
後陽成天皇の信任が厚く、しかも天海を通じて江戸幕府とも関係があった平田職忠はまさにその役目に適した人物であり、それが出納平田家の上昇にもつながったのである。

結果的にその後も出納平田家による蔵人方(約60家)支配はそのまま継続され、両局と同様に朝廷儀式における実務を担当した。

三催体制の成立と解体

江戸時代の地下官人制度は局務・官務・出納からなり地下官人を統率する催官人と一般の地下官人である並官人、その下で雑用を担当し株の売買によって町人や農民でも身分を獲得することが可能であった下官人の3層構造体制で構成されていた。

出納平田家は催官人であり職掌面では局務押小路家・官務壬生家と同格であったが、伝統的な公家社会では壬生孝亮が唱えたように出納を「凡卑」と捉える考え方は依然と強かった。
両局は依然として「地下官人之棟梁」として認識され(『正徳公家鑑』)、平田家はそれより下位と看做されていた。
桜町上皇と一条兼香が定めた寛延3年(1750年)の「官位御定」では、押小路家・壬生家が従三位に昇ることが可能であったのに対して、平田家は従四位上叙任を70歳以上とし、特別な功労がない限りは正四位下には昇進できないとしている。
その制約は明治維新後も続き、押小路家・壬生家は男爵に叙せられたのに対して、平田家は並官人と同様の士族として扱われた。

ただし、慶応4年(明治元年/1868年)の『雲上大全便覧』には、両局の説明後に「蔵人方出納此三家合三催云」という一文が付け加えられ、押小路家・壬生家・平田家をもって「三催」と称している。
今日の歴史学界において、江戸時代の朝廷及び地下官人の研究を行う際には、その実態を重視して伝統的な公家名鑑類において定義付けられた「地下官人之棟梁」=両局という図式は採用せず、「地下官人之棟梁」=三催という位置付けで行われるようになっている。

平田家記録

平田家は平安時代末期より代々蔵人所出納を務め、後には世襲してきたが、政務や公事、儀式に必要な知識などを歴代当主が日記の形式で書き残して子孫へと伝えていった。
戦国時代 (日本)の平田職盛・平田職定の日記が残闕は存在しているものの、現存するまとまった形式の日記としては平田職忠が書いた天正11年(1588年)の日記となる。
以後断続的ながら明治元年までの日記がほぼ原本のまま残され、特に延宝2年(1674年)以後の200年弱のうち欠失は10余年分と高い残存率を残している。
これに家伝の儀式・有職書や図面、重要な儀式について日記とは別個に記した記録「別記」のみを編纂した「平田家日記部類」32冊などが残されている。
これらは明治34年(1901年)に宮内省に献上され、今日も「平田家記録」として宮内庁書陵部が所蔵している。

政治的な重要事件に関する記述は役目の地位の問題から多くはないが、その代わり江戸時代の宮中儀式のあり方や日常の宮廷の状況、地下官人制度についての記録は詳細であり、公卿の日記・記録類では多くを見ることが出来ない事務方の動向について知ることが可能である。

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