武田氏 (Takeda clan)

武田氏(たけだし)は、平安時代末から戦国時代 (日本)の武家。
本姓は源氏。
家系は清和源氏の一流・河内源氏の一門、源義光を始祖とする甲斐源氏の宗家である。
安芸国・若狭国に分派が存在し、上総国には庶流があった。

武田氏の祖は、後世の当主からは河内源氏の棟梁・源頼義の三男源義光と位置づけられている。
河内源氏を称した源頼信は長元2年(1029年)に甲斐守に任官し、頼義、義光と継承される。
頼義までは在京で現地へは赴いていないと考えられている。
義光は初めて甲斐へ着任し土着した人物とも言われ、山梨県北杜市須玉町若神子の若神子城は義光の在所であったとする伝承がある。
1981年(昭和56年)の発掘調査では出土遺物が確認されるものの義光の在所とする確定的な証拠は発見されなかった。
また古代甲斐における国衙が八代郡 (甲斐国)であることからも義光の入国は疑問視されている。
また、甲斐守任官についても否定的意見がある(秋山敬による)。

昭和43年に志田諒一が『勝田市史』において発祥を義光の子である源義清 (武田冠者)(武田冠者)が常陸国那珂郡武田郷(現・茨城県ひたちなか市武田、旧勝田市)において武田姓を名乗ったとする説を提唱した。
現在ではこれが定説として支持されている。
大治5年(1130年)に義清の嫡男清光の乱暴が原因で父子は常陸を追放され、甲斐国へ配流されたという。
配流先は巨摩郡市河荘(山梨県市川三郷町、旧市川大門町)のであるとされているが、現在の昭和町西条とも考えられている。

義清父子は八ヶ岳山麓の逸見荘へ進出し、子孫は甲府盆地の各地へ土着して諸氏が分出した。
清光は逸見(へみ)姓を名乗り武田を称した形跡は無いが、義清の孫にあたる武田信義は元服の際に武田八幡宮において武田を称したという。
鎌倉時代には御家人となって駿河国守護に任命された。
その子の武田信光は甲斐・安芸守護にも任ぜられ、武田氏が甲斐、安芸で繁栄する基礎を築いた。

河内源氏の名族の一つとして戦国時代には戦国大名化する。
武田信玄の頃には領国拡大し中央の織田・徳川勢力に対抗する。
しかし、勝頼期には領国の動揺を招いて宗家は滅亡し、江戸時代にはわずかに庶家が残った。

家宝は御旗(後冷泉天皇から下賜された日章旗)・楯無(楯無の鎧、源頼義が御旗とともに授けられたという)。

甲斐武田氏

甲斐武田氏は、清和源氏の河内源氏系甲斐源氏の本流である。
4代武田信義(源信義)は以仁王から令旨を受け取り挙兵する。
当初は独立的立場を取っていたが、富士川の合戦を期に源頼朝に協力して戦功をあげ駿河国守護を任ぜられる。
その後、その勢力を警戒した頼朝から粛清を受け、信義は失脚し、弟や息子達の多くが死に追いやられた。
しかし、信義の五男武田信光だけは頼朝から知遇を得て甲斐国守護に任ぜらた。
こうして、信光は韮崎にて武田氏嫡流となる。
信光は承久の乱でも戦功を上げ、安芸国守護職に任ぜられ、安芸武田氏の祖となる。

鎌倉時代後期に後醍醐天皇が挙兵した元弘の乱では鎌倉の北条氏に従い笠置山を攻めた。
幕府滅亡後の1335年に北条時行らが起した中先代の乱にも参加する。
その後南北朝時代 (日本)には安芸守護であった武田信武が足利尊氏に属して各地で戦功をあげ、石和系武田氏に代わり甲斐国守護となった。
1416年に鎌倉府で関東管領の上杉禅秀が鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻す(上杉禅秀の乱)と、武田信満は女婿にあたる禅秀に味方した。
しかし、京都の幕府の介入で禅秀は滅亡し、信満は鎌倉府から討伐を受け、自害する。
後継の甲斐守護職は、逸見氏との甲斐源氏同士の内紛の末、幕府の追及を恐れて高野山で出家した信満の弟である武田信元が任じられる。
その後は鎌倉府と幕府の対立から鎌倉府に服した。
6代将軍足利義教の頃には永享の乱で鎌倉府が衰亡し、信満の子の武田信重の代に結城合戦で功績を挙げ再興のきっかけをつかんだ。

信重の復帰以降も国内の有力国人や守護代である跡部氏の専横や一族の内紛、周辺地域からの侵攻に悩まされた。
16代武田信昌の時には跡部氏を排斥して家臣団の統制を行い国内を安定化に向かわせるが、後継者を巡り内乱となる。

18代武田信虎の頃には国内はほぼ統一され、積極的に隣国である信濃国に侵攻して家勢を拡大した。
武田信玄の時には大名権力により治水や金山開発など領国整備を行い、信濃に領国を拡大した。
信玄は隣国の今川氏、後北条氏と同盟を結んで後顧の憂いを無くして信濃侵攻を進め、北信濃地域の領有を巡って越後の上杉氏と衝突した(川中島の戦い)。
今川氏が衰退した後は、同盟を破棄して駿河国へ侵攻し、東海地方に進出した。

1572年、15代将軍足利義昭の要請に応じて上洛を開始したが、その途上、信玄が病死したため武田軍は甲斐国に撤退した。
最盛期には甲斐国・信濃国・駿河国及び上野国・遠江国・三河国・美濃国・飛騨国・越中国の一部の計9カ国に及ぶ120万石の領土を有した。
武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなる。
1575年長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、1582年織田信長に攻め込まれて滅亡した(天目山の戦い)。
徳川家康の計らいで最初は武田家臣の穴山信治(武田信治)に継がせた。
のち家康は自身の五男の福松丸に武田信吉と名乗らせ、家督を継がせたが、断絶した。

信玄の次男・竜芳(海野信親)は盲目で出家していたため難を逃れた。
竜芳の子の武田信道が大久保長安事件に巻き込まれて伊豆大島へ流される不幸もあったが、その子武田信正の代で許されて1700年に幕臣となり高家として仕えた。
1915年(大正4年)、大正天皇御大典を機に信玄が従三位に叙せられた際、当時の当主武田信保に信玄に対する位記宣命が渡された。
以後、この家系が信玄に最も近い正統とされ、現当主武田英信へ受け継がれて現在に至っている。
信玄五男・仁科盛信の長男仁科信基と次男武田信貞が徳川将軍家旗本として仕え、2系とも現在も存続している(信貞は武田に復姓している)。
信玄七男の武田信清は姉婿である上杉景勝のもとへ逃れ、のちに武田姓に復して代々同家に仕えた。
信玄の弟・川窪信実の子川窪信俊は徳川家康に旗本として仕え、これものちに武田姓に復している。

戦国甲斐武田氏(信玄・勝頼時代)の主要家臣

武田氏は、戦国大名家の家臣団に関する軍制や所領の実態が記された軍役帳や所領役帳などの基礎史料を欠いているため、家臣団の実態を知ることは難しい。
江戸時代に記された軍記物である『甲陽軍鑑』には晴信(信玄)晩年期・勝頼期に関して家臣団の詳細が記されている。
江戸期以来の流行により一般においても広く知られてはいる。
『軍鑑』は明治期の史学会において田中義成により史料性を否定され、長く実証的研究においては用いられてこなかった。
しかし、近年は酒井憲二による国語学的研究が行われて再評価され、史料性の再検討がなされている。

武田氏研究と武田氏関係文書

甲斐武田氏では武田信玄が江戸時代から近代にかけて『甲陽軍鑑』の流行により一般においても広く知られ、地元においては郷土史の象徴的人物と位置づけられいった。
明治期には郷土史家により勤皇家や郷土の英雄として信玄像を位置づけることを目的とする研究や、戦史中心の研究が行われていた。
昭和初年には『甲斐史料集成』や『甲斐叢書』が刊行され、山梨郷土研究会も発足し実証的研究がスタートした。

戦後には昭和30年代から研究が活発化した。
信玄期以前においても『吾妻鏡』の史料批判による鎌倉時代の研究や、南北朝・室町期の研究も行われた。
信玄期においては奥野高広や磯貝正義、上野晴朗らの実証的評伝が発表された。

また、『勝山記』など新史料も発見や史料刊行が進み、昭和62年には武田氏研究会が発足する。
武田氏館など考古学的な発掘調査も進み、信玄期以外にも前代の信虎期や後代の勝頼期へも視点が向けられるようになった。
現在では社会経済史的視点からの研究や戦国大名武田氏の権力構造の解明、家臣団の個別研究のほか、財政や治水事業、軍事や外交、交通や都市問題、商職人支配や郷村支配、宗教など各分野における実証的研究や民俗学的アプローチなど研究の地平が広っている。

一方で、網野善彦はこうした武田氏や甲斐源氏中心の研究に対して甲斐中世史において他氏族の果たした役割を強調し、武田氏以外の氏族研究の必要性を主張している。

また、武田氏研究と平行して武田氏関係文書の編纂も行われている。
武田氏は宗家が滅亡しているため家伝文書が散逸しており写本や影印本のみで知られるものも多い。
現在では3300点余りの文書が知られている。
古くは江戸時代に幕府が編纂した『諸州古文書』において甲斐の古文書調査が行われている。
同様に、甲斐国の総合地誌として編纂された『甲斐国志』では武田氏関係の記述は『甲陽軍鑑』がベースとなっているが編纂に伴う古文書調査は行われている。
ただ、これらに収録されている文書には現在原本が確認できないものも多く含まれている。

実証的な武田氏研究が本格化した昭和戦後期には武田氏関係文書集の刊行も行われた。
1966年には『甲府市史』の編纂に際して『甲府市史史料目録』に「甲斐武田氏文書目録」が含まれた。
さらに、1969年には荻野三七彦・柴辻俊六により『新編甲州古文書』が刊行された。
その後も新出文書の増加や無年号文書の検討作業が進捗した。
また、『山梨県史』編纂事業のスタートに伴い総合的な史料調査も行われた。
現在では柴辻俊六・黒田基樹『戦国遺文』武田氏編や『山梨県史』資料編中世において集成されている。

武田氏関係文書の特徴として、文書の多くは戦国期に武田氏の拡大領国が確立した信玄・勝頼期に集中し、信虎期以前のものが極端に少ないことが指摘されている。
また、信玄・勝頼期でも当主以外の武田一族の文書や家臣団関係の文書、在地支配に関する文書などは少ない。
また、偽文書が多いことも指摘されている。

安芸武田氏

安芸武田氏は5代武田信光の時代に承久の乱の戦功によって鎌倉幕府より安芸国守護に任じられたことから始まる。
任命当初は守護代を派遣していたが、後に7代武田信時の時代に元寇に備えて安芸国に佐東銀山城を築き本格的な領土支配に乗り出すようになった。
南北朝時代に10代武田信武が足利尊氏に属して戦功を上げた結果、甲斐国と安芸国の守護に任命された。
この時、信武次男・武田氏信が安芸守護として分家し、安芸武田氏の初代となった。
しかし氏信は1368年(応安元年)に幕府によって守護職を解任され、以降安芸守護職は今川氏や細川氏等の足利一門が担った。
しかし、安芸武田氏自体は銀山城を中心とした分郡守護として存続している。

大内氏とは対立関係にあり、応仁の乱でも東軍方について参戦、以降戦国時代まで尼子氏らと組んで大内氏に対抗した。
しかし、安芸武田氏9代武田信実の時代、1541年(天文_(元号)10年)6月に大内氏の命を受けた毛利元就によって銀山城は落城し滅亡した。
戦国時代末期から安土桃山時代にかけて毛利氏の外交僧として活躍した安国寺恵瓊は、信実の従兄弟である武田信重 (安芸武田氏)の子にあたる。
安芸武田氏の中で唯一後世に著名な人物である。

若狭武田氏

鎌倉時代に石和五郎信光が若狭国大飯郡に源力木山城を築く。
若狭武田氏は安芸武田氏4代武田信繁 (室町時代)の長男である武田信栄が、室町幕府6代将軍足利義教の命を受けて1440年(永享12年)に若狭守護職・一色義貫を誅殺した功績により若狭守護職を任命されたことによって始まる。
信栄は、一国守護となったのを機会に安芸から若狭に本拠地を移した。
信栄のころは、まだ遠敷郡小浜(現・小浜市)ではなく、大飯郡高浜(現・高浜町)に武田氏の館があったといわれている。
信栄は1441年(永享13年)28歳の若さで病死するが後を弟の武田信賢が継ぎ、安芸国と平行して若狭国経営に乗り出した。
信賢以後、武田家は分裂し、安芸武田氏は信繁四男・武田元綱が継ぎ、若狭武田氏は信繁三男・武田国信が継いだ。

武田信賢は若狭国内の一色氏残党や一揆を次々に鎮圧して国内を固める一方、応仁の乱では東軍に属して丹後国に侵攻するなど活躍した。
室町幕府からの信頼も厚く、また文化人とも積極的に交流している。
3代国信以降は若狭国、丹後国の両国を中心に領国経営を行う一方で幕府の出兵要請に応えて頻繁に京へ出兵する。
在京期間のほうが長くなったこともあり、周辺諸国からの圧力、有力国人の離反などが相次いで勢力を弱める。
8代武田義統の時代には家督争いも加わりさらに弱体化が進行する。
1566年(永禄9年)8月には姉婿の義統を頼って入国した足利義昭を庇護するが、家中の混乱を見かねた義昭一行は早々に越前国朝倉氏を頼って出国する。
若狭武田氏も2年後の1568年(永禄11年)8月に、越前朝倉氏の若狭進攻によって領国を失う。

最後の当主9代武田元明は、朝倉氏によって一乗谷城居住を強いられていたが、1573年(天正元年)に織田信長によって朝倉氏が滅亡すると若狭に帰国した。
しかし信長より若狭を任されたのは丹羽長秀だったので元明は大飯郡の石山3000石のみの領有を許されただけだった。
1582年(天正10年)の本能寺の変では旧領回復を狙って丹羽長秀の居城佐和山城を陥落させ明智光秀に加担する。
しかし、光秀に勝利した羽柴秀吉・丹羽長秀によって自害を命じられ、若狭武田氏は滅亡した。

上総武田氏

上総武田氏は武田信満の子・武田信長に始まる家系である。
古河公方足利成氏によって上総国の支配を認められて同国を支配した。
信長の息子・武田信高の死後、嫡流は庁南城に、分家は真里谷城に本拠を構えた。
嫡流は地名を取って庁南氏(ちょうなんし)を名乗ることもあった。
上総武田家最後の当主・武田豊信は地元の伝承では信玄の三男・西保信之と同一人物とされ、甲斐武田氏滅亡後に弟の仁科盛信の家族を匿ったという説がある。
以後、豊信は後北条氏傘下の将として徹底した反織田氏・反豊臣氏路線を貫いた。
1590年に関東平定中の豊臣軍によって居城を囲まれると自害して果て、同氏は滅亡した。

一方、真里谷城の分家は真里谷氏(まりや/まりやつし)と名乗った。
戦国時代前半には上総国西部から中部一帯を領有する大勢力となった。
真里谷信保は古河公方足利政氏の子・足利義明が家督争いの末に出奔するとこれを迎え入れて「小弓公方」と名乗らせ、自らは「房総管領」を名乗ったと言われている。
だが、庶出ながら一人息子であった真里谷信隆に家の実権を譲った後に正室から次男真里谷信応が生まれると、「嫡出の信応を後継者とすべき」とする一派と「一度信隆を後継者と決めた以上は変えるべきではない」とする一派に家臣団は分裂してしまった。
信保の死後、当主になった信隆ではあったが、程なく信応派が足利義明や里見義堯と同盟を結んで信隆を真里谷城から追放してしまう。
このため、信隆は北条氏綱の元へと亡命することとなった。
これが国府台合戦の一因とも言われている。
同合戦後、北条軍に攻められた真里谷信応とその支持者は降伏して信隆が当主に復帰した。
しかし、信隆の死後に里見義堯が信隆の後を継いだ真里谷信政を攻め滅ぼして真里谷氏を支配下に収めるのである。
だが、国府台合戦後には再び北条氏に屈服し、豊臣氏の関東平定によって所領を奪われて那須氏のもとへ亡命する。
こうして、真里谷氏も庁南の本家と運命をともにするのである。

なお、嫡流は武田豊信の子・氏信が生存し、庁南城落城の後家臣団に守られて近隣に移住、郷士として土着した。
そしてそのまま江戸時代を乗り切り、現在も血筋が続いている。
分家のその後は不明である。

因幡の武田氏

因幡国守護・山名氏の家臣に若狭武田氏傍流の一族がいる。
いつ頃から因幡山名氏に仕えたのかは不明だが、『蔭涼軒日録』延徳3年(1491年)11月6日条に山名豊時家臣として「武田左衛門大夫」の記述が見える。
1545年、山名誠通の家臣武田国信が久松山城(後の鳥取城)を改築した。
しかし、あまりに堅固過ぎたため、主君より謀叛の疑念を買い謀殺された。
(国信の最後に関しては諸説あり、天文9年の橋津川の戦いで討ち死にしたとする説もある)
天文 (元号)年間に鵯尾城が築城され、国信の嫡男武田高信が入ると弟の武田又三郎に鵯尾城を任せ、自らは鳥取城に入り守護山名豊数に対抗する様な姿勢を見せる。
1563年(永禄6年)、安芸の毛利氏と結んだ高信は鹿野城主・山名豊成(誠通の子)を毒殺、同年4月の湯所口の戦いで豊数を破った。
布勢天神山城を追われた豊数は鹿野城へ逃れたものの、後に病死した。
1573年(天正元年)、出雲国の戦国大名尼子氏の支流・新宮党の遺児である尼子勝久と山中鹿之介が因幡に侵入し、甑山城に入城する。
武田氏は山名豊国・尼子勝久連合軍と戦うため、これを攻撃するが破れ、鳥取城を主家 山名氏に明け渡し、鵯尾城に退いた。
1578年(天正6年)、美作国の国人領主・草刈氏が因幡国智頭郡に淀山城を構え、勢力を伸ばすと、山名氏はこれを討伐するため、同国佐貫の大義寺に陣を敷き、武田高信に軍議に応ぜよと招聘した。
高信が寺に入ると門を閉ざし、これを討ったため、因幡の武田氏は滅亡した。
『陰徳太平記』『因幡民談記』などによれば、高信の遺児・武田源五郎は南条元続の許に、源三郎(武田助信)は毛利秀包の許に身を寄せたという。
この内、武田源三郎は村岡藩主となった山名豊国が200石を以って召抱えたとされる。
事実、明治元年(1868年)1月の『山名家加封之時藩士格録人名』には武田氏の名前が見えている。
このことから、因幡武田一族の一部は山名家に仕え、村岡藩士となり、明治維新を迎えたことが分かっている。

武田国信(豊前守)
武田高信(嫡男)
武田助信(村岡藩士となり、山名豊国に仕える)

常陸の武田氏

常陸の武田氏(1)
源義光の子・武田義清が常陸国那珂郡武田郷より起こる。
冒頭を参照。

常陸の武田氏(2)
1392年(明徳3年)、甲斐武田家12代武田信春の子・武田信久が甲斐国より常陸国北浦に下り居城を構えた。
領地を治める傍ら剣術の一流を築いた。
武田顕輔、尚徳が水戸藩に仕え、師範となる。
家伝剣術の他、北辰一刀流剣術、鹿島新当流、天真正伝香取神道流を修め武田輔長の伝えた。
武田輔長はこれを武田新当流として確立。
今日に至る。

常陸の武田氏(3)
戦国時代まで甲斐武田氏の庶流にして守護代であった跡部氏は、武田氏滅亡の折、主家に叛いて後に徳川氏の家臣となる。
その後、子孫は水戸藩(水戸徳川家)に仕えた。
幕末時に主家に叛いた跡部姓を嫌った武田耕雲斎が主君徳川斉昭に願い出て、本姓である武田姓に復姓を果たした。

武田耕雲斎(贈正四位。水戸藩士 跡部正続の子。本家の跡部正房の養子となる。)

武田魁介(正生の子)

その他

相模国には戦国時代には後北条氏に従った武田氏がいた。
上総武田氏の真里谷信隆が北条氏を頼ったのは、相模の武田氏が仲介したからだとされる。
その他では土佐国の香宗我部氏は武田氏の一族であったとされる。
(武田菱の陣羽織が現存している。)

武田菱

武田菱は、甲州武田家の家紋である。
由緒書きによると、武田家の家宝「楯無」の鎧は神功皇后が三韓征伐の時に住吉大社に武運長久を祈念し得た鎧であり、ゆえあって甲州武田家の所有するところとなった(無論三韓征伐云々の伝記は時代的に合わないので史実ではない)。
その鎧に付いていた「花菱」の文様を武田氏の定紋としたという。
武田氏の遺品や肖像に残る家紋は皆この「花菱」である。
戦国時代軍旗に「花菱」を多数描くのが煩雑なため、菱形を4つ合わせた「四つ割菱」という略紋が生まれたという。
ただし由来には諸説あり武田の田の字を元にデザインされたとも言われている。
江戸時代以降、甲陽流軍学者が信玄の肖像画を珍重し、その中や浮世絵などに盛んに「四つ割菱」の図柄が描かれてしまったために、「四つ割菱」が定紋であるかと思われがちである。
しかし、本来の紋は「花菱」である。
旧甲斐国の山梨県では、甲府駅から一般家屋に至るまであらゆる場所に武田菱が見られる。

[English Translation]