江戸氏 (Edo Clan)

江戸氏(えどし)は日本の氏族の一つ。
歴史上、武蔵国と常陸国で勢力を振るった氏族が有名である。

武蔵江戸氏は、桓武平氏秩父氏の一族。
武蔵国江戸郷 (武蔵国)に本拠地を置き、のちに現在の皇居を本拠に勢力を張った一族。

常陸江戸氏は、藤原秀郷那珂氏の一族。
常陸国那珂郡江戸郷 (常陸国)に本拠地を置いたが、後に水戸城に移る。

武蔵江戸氏
平安時代の末(11世紀)に秩父重綱の四男江戸重継が武蔵国江戸郷を相続し、「江戸四郎」を称したのが始まりとされる。
重継は現在の皇居の本丸、二の丸周辺の台地城に居館を構えたという。

江戸氏は1180年に源頼朝が挙兵した時、すでに武蔵国内の最有力の武家の一角となっていた。
重継の子江戸重長は初め頼朝と対立して頼朝方の三浦氏を伐ったが、後に和解して鎌倉幕府の御家人となった。

弘長元年10月3日_(旧暦)(1261年)、江戸氏の一族の一人であった地頭江戸長重が正嘉の飢饉による荒廃で経営が出来なくなった江戸郷前島村(現在の東京駅周辺)を北条氏得宗家に寄進してその被官となり、1315年までに得宗家から円覚寺に再寄進されている事が記録として残されている。

鎌倉幕府が滅びると、江戸氏は南北朝時代 (日本)の騒乱において初め新田義貞に従って南朝 (日本)方につき、後に北朝 (日本)に帰順して鎌倉公方に仕えた。
江戸長門・江戸高良らは畠山国清の命により矢口渡で新田義興謀殺に加わった。
その後、武蔵平一揆で敗退するなどして衰退した。

その後、庶流といわれる喜多見氏が世田谷吉良氏に仕える。
やがて、主家世田谷吉良氏やさらにその主家である後北条氏が豊臣秀吉に攻められると没落した。
喜多見勝忠が江戸に入府した徳川家康に仕え、世田谷喜多見に所領を与えられる。
喜多見重政は征夷大将軍徳川綱吉の寵臣として大名に列するようになり、喜多見藩を立藩する。
しかし、元禄2年(1689年)2月2日_(旧暦)に突然改易され、大名である喜多見氏は滅びた(分家の刃傷事件に連座したともされる)。

江戸氏の居館跡はのちに、長禄元年(1457年)太田道灌が江戸に封じられた後江戸城として整備された。
太田氏の江戸城はやがて後北条氏の支配下に置かれる。
その後徳川家康が本拠地を置き、徳川幕府が代々整備し、明治維新後は宮城となり現在の皇居となった。

常陸江戸氏

常陸国の江戸氏は本姓は藤原氏。
家系は鎮守府将軍藤原秀郷を祖とする川野辺氏の支流 那珂氏を祖とす。

那珂氏は平安時代末期に那珂郡に本拠地を置き、常陸の豪族として栄えた。
しかし、南北朝時代になると、宮方につき、一族の殆どが没落する。
しかし、那珂氏の一族である那珂通泰は武家方につき、那珂郡江戸郷を封ぜられ、子の江戸通高の代に江戸氏を称するようになる。
通高は守護佐竹義篤 (九代当主)(佐竹氏第九代当主)の娘を娶り、度々軍功をあげた。
江戸通景は本拠地を河和田(現水戸市内)に移す。
その子江戸通房の代には上杉禅秀の乱が勃発し、鎌倉公方足利持氏についた通房は、禅秀方に味方して共に没落した大掾氏の一族の馬場氏の拠点である馬場城(後の水戸城)の近辺に所領を得た。
大掾満幹はその後も馬場城を保持し続けたが、応永33年(1426年)に馬場城を留守にした隙に、通房に馬場城を攻め落とされた。
以降江戸氏は馬場城(水戸城)を本拠地として那珂川中下流部で勢力を振るう。
その後、守護佐竹氏の内部で山入一揆と呼ばれる内訌が発生すると積極的に介入し、佐竹領にも進出するようになる。
戦国時代_(日本)に入り、佐竹義舜が山入氏を滅ぼすことにより佐竹氏の内訌が収まり、それとともに江戸氏の北進は止まる。
江戸通泰は佐竹氏に臣従の姿勢を見せたものの、独自の勢力を保ち、古河公方家の家督争いなどで混乱が続く常陸西部及び南部に進出する。
江戸忠通・江戸通政・江戸重通は佐竹義重 (十八代当主)と同盟を結び、佐竹氏は南奥に、江戸氏は常陸南部にそれぞれ積極的に進出する。
重通は府中に拠点を置く大掾氏を激しく攻めたてた。

天正18年(1590年)小田原の役がおこり、豊臣秀吉は小田原城を包囲し、関東、東北地方の諸氏に参陣を命じた。
佐竹氏は後北条氏と対立し、秀吉と結びついていたことから参陣したが、後北条氏と結んでいた江戸氏は参陣しなかった。
秀吉は佐竹義重に常陸21万貫の所領安堵状を発給する。
これを楯に佐竹義重は一気に南下、水戸城を落とす。
重通は妻の兄である結城晴朝のもとに逃走する。
これにより江戸氏は滅亡した。
子孫は結城秀康に仕えたという。

[English Translation]