甲斐庄氏 (Kainosho clan)

甲斐庄(荘)氏(かいのしょうし/かいしょうし)は日本の氏族の一つ。

楠木正成の弟楠木正季の子孫が河内国錦織郡甲斐庄を領有し、甲斐庄を名乗ったことに由来する。
楠木氏の一族ではあるが、室町時代に河内守護であった畠山氏に降伏し、その家臣となり、本領安堵された。
その子孫として戦国時代 (日本)前期に甲斐庄隆成、戦国時代後期に烏帽子形城城主でキリシタンであった甲斐庄兵右衛門正治の名が見える。
正治は畠山家重臣で烏帽子形城城主であったが畠山氏没落に伴い、烏帽子形城を失い没落した。
流浪したがいつの頃からかは定かではないが徳川家康に仕える。
また、その子、甲斐庄喜右衛門正房も徳川家康に仕え、御家人として家名が存続した。
大坂の陣では河内の地理に詳しいことから道案内をつとめ、加増を受けて旗本となった。
一説によると、本能寺の変の際、堺市から三河国へ帰国する家康に同行した河内の土豪で、家康の警護をした恩賞として、旧領復帰(2,000石)と加増(2,000石)で4,000石の旗本になったともいう。
正房の子、正述は長崎奉行をつとめ、その正述の子、飛騨守正親は勘定奉行、江戸南町奉行<在任期間:延宝8年(1680年)8月30日~元禄3年(1690年)12月3日>などをつとめるなど活躍した。

また、同族で別系統に能登甲斐庄氏があり、甲斐庄駿河守家繁が能登畠山氏重臣として見える。
河内国の畠山氏からの分家である能登畠山氏に、甲斐庄氏からも分家した一族が従っていたものと思われる。
甲斐庄正親は「八百屋お七悲恋物語」にも登場する南町奉行、甲斐庄飛騨守と同一人物である。

また、同族として、旗本で美濃郡代(在任期間:天和 (日本)3年(1683年)~貞享2年(1685年))をつとめた甲斐庄正之がいる。
正親が南町奉行在職中であるので、その兄弟ではないかと推測されるが断定はできない。

歴代

判明している人物を時系列で並べてあるが、必ずしも全てではない。

甲斐庄正治
甲斐庄正房
甲斐庄正述(普請奉行・長崎奉行)
甲斐庄正親(勘定奉行・南町奉行・浅野長武の舅)
甲斐庄正永
甲斐庄正恒
甲斐庄正壽
甲斐庄正里
甲斐庄正文
甲斐庄正博(帯刀・明治維新時の当主、旗本4,000石)

甲斐荘正秀 正博の養子となるが、後、離縁。

甲斐庄楠音 (かいのしょう・ただおと 1894年~1978年):大正・昭和期の著名な日本画家。
正秀の三男。

甲斐荘楠香 京都大学卒、高砂香料工業株式会社の創業者。
正秀の長男。

甲斐荘正興 楠香の子。

その他の甲斐庄(荘)氏の著名人

甲斐庄家繁 能登畠山氏家臣。
駿河守。

甲斐荘泰生→甲斐莊正晃 株式会社日本総合研究所システムコンサルティング部上席主任研究員。
著書「エージェント・システム―コンピュータ代理人社会のゆくえ」など。
改名後、株式会社KAINOSHO(旧社名:ケイブレイン株式会社)代表取締役、著書「インナーブランディング」。

甲斐荘正恒 東京都立大学理学研究科化学専攻教授、日本核磁気共鳴学会会長。

甲斐荘敬司 株式会社ジャパンエナジー精製技術センター主任研究員、共著「白色LED照明システム技術の応用と将来展望」。

甲斐荘博司 株式会社ジェイ・アイ・エム取締役。

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