吉野 (Yoshino)

吉野(よしの)とは、奈良県南部の別名。
吉野山から大峰山の山岳地帯をいい、狩りに適した良い野という意味である。
吉野は口吉野と奥吉野に別れる。
奥吉野は山々が連なる山岳地帯で、古くは大峰とよばれ、厳密には吉野に含まれなかった。
大峰の山々は熊野まで連なる。
大峰への道は修験者によって、熊野から開かれた。

『記・紀』には応神や雄略の吉野での狩りの伝承が載せられている。

地理

紀伊半島の中部に位置し、奈良盆地の南に位置する。
高地・盆地・山岳地帯が並存する。
口吉野は紀の川流域、奥吉野は十津川・北山川流域である。
吉野川は紀ノ川となって紀伊水道へと流れ下り、十津川と北山川は熊野川となって熊野灘へ注いでいる。

熊野地方(三重県南部から和歌山県東牟婁郡まで)と並ぶ多雨地帯であり、台風銀座でもある。
吉野杉は秋田杉や木曽桧と並んで日本三大美林一つとされ、日本有数の林業地帯となっている。

サクラの名所としても知られるが、多くは吉野の名を冠したソメイヨシノではなく、ヤマザクラの類である。

2004年には、吉野・大嶺を含む紀伊山地の霊場と参詣道が、国際連合教育科学文化機関の世界遺産に登録された。

歴史

「吉野」「吉野地方」の範囲は時代によって異なっており、時代が下ると共に奥へ奥へと拡大していった。
もともとの吉野は、吉野川北岸の原野を指していた。
つまり、高取山や竜門岳の南斜面である。

最小では吉野山或いは吉野宮(宮滝遺跡)を指す場合もある。

古代

吉野が最初に史書に現れるのは、『古事記』『日本書紀』の神武東征の記事で、熊野国から大和国に入る通過地として記載されている。
元より半神話の世界なので、正確な比定は困難であるが、現在の川上村 (奈良県)、或いは東吉野村などの吉野川沿いの地域が想定される。

応神天皇の遊興の地となり、654年には離宮として吉野宮(宮滝遺跡)がおかれたとされ、大化の改新後の古人大兄皇子、または壬申の乱の直前の大海人皇子(天武天皇)及びその妻・鸕野皇女(持統天皇)の隠遁地、持統天皇の行幸の地として記されている吉野は、現在の吉野町の宮滝付近にあった離宮・吉野宮を指すものと思われる。

和銅年間以降は「芳野」と表記され、天武系王朝の故地として聖武天皇もたびたび行幸した。
また、古代には歌枕の地でもあった。

平安時代には、役行者が開いたと伝えられる金峯山寺が建立され、吉野山は修験道の地となる。

鎌倉時代から江戸時代まで

鎌倉時代後期には、後醍醐天皇の皇子である護良親王が吉野山で倒幕の兵を挙げる。
後醍醐は幕府滅亡後に京都で建武の新政を開くが、南北朝時代 (日本)には吉野へ移り、皇居や行政機関を置いて吉野朝廷(南朝)が成立。
吉野町の吉野山を中心とするが、旧西吉野村には行宮としての賀名生皇居があった。
川上村にも伝承地がある。
南北朝統一後、室町時代にも後南朝勢力の活動地となった。

江戸時代初期には、1614年に徳川家康の顧問を務めた天海の支配下となった。

[English Translation]