山城国 (Yamashiro no Kuni (Yamashiro Province))

山城国 (やましろのくに) は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つで、畿内に位置する。
現在の京都府南部にあたる。
別称は城州(まれに山州とも)、雍州。
延喜式での格は国司国等級区分。

歴史

「やましろ」は、古くは山代と書き、7世紀に山背国という表記で国が建てられた。
延暦13年(794年)11月8日の平安京命名の際に、桓武天皇が、山河が襟帯して自然に城をなす形勝から、山城国に改称した。

平城京時代の木簡を見る限り、山代国、山背国と表記は並存しているようである。

国府は、和名類聚抄に、河陽離宮。

拾芥抄では、乙訓郡、府と記載されている。

節用集(易林訂正);奥書 跋末「慶長ニ易林誌」に、乙訓郡、府と記載されている。

守護所は、当初、山城国守護を京都守護が兼任していたため、京都守護の御家人の館が当てられた。
その後、六波羅探題が兼務するようになり、守護所も六波羅となった。
室町時代に山城国を宇治川を境に上三郡と下五郡に分割して、それぞれに守護代を任ずるようになってからは、上三郡の守護所が宇治槙島に置かれ、下五郡の守護所が淀など数ヶ所に置かれた。

一宮、国分寺など
国分寺は、僧寺と尼寺ともに相楽郡にあった。
恭仁宮大極殿が746年に僧寺とされた。
882年に焼失。
その後再建されるが衰退する。
鎌倉時代には平等院の末寺となっていたようである。
場所は現在の木津川市加茂町にあたる。
1925年(大正14年)に国分寺のそばで大量の古瓦が発掘され、尼寺の跡だと考えられている。

延喜式神名帳には、大社53座37社(うち名神大社23座16社)・小社69座59社の計122座96社が記載されており、他に宮中の36座(大30座・小6座)、京中の大3座が記載されている。

一宮は京都市の賀茂神社(北区 (京都市)の賀茂別雷神社(上賀茂神社)及び左京区の賀茂御祖神社(下鴨神社))である。
山城国の一宮指定には、地方の諸国と異なって神祇官が関わっていると思われ、11世紀末から諸国でそれぞれに一宮が成立していく中で、畿内ではそれに対応して12世紀になってから決められたと考えられる。
二宮以下は存在しない。
総社は不詳である。

乙訓郡
葛野郡
愛宕郡
紀伊郡
宇治郡
久世郡
綴喜郡
相楽郡

守護
鎌倉幕府
~1221年 - 京都守護兼任
1221年~1333年 - 六波羅探題兼任
室町幕府
1353年~1384年 - 侍所兼任
1385年~1386年 - 山名氏清
1389年 - 赤松義則
1389年~1390年 - 山名氏清
1390年~1391年 - 赤松義則
1391年 - 山名氏清
1392年~1394年 - 畠山基国
1394年~1399年 - 結城満藤
1399年 - 京極高詮
1399年~1402年 - 結城満藤
1402年~1403年 - 畠山基国
1404年~1416年 - 高師英
1418年~1421年 - 一色義貫
1421年~1423年 - 京極高数
1424年~1428年 - 京極持高
1428年~1433年 - 畠山満家
1433年~1434年 - 畠山持国
1434年~1436年 - 一色義貫
1436年~1439年 - 赤松満祐
1440年~1441年 - 山名持豊
1441年~1447年 - 京極持清
1447年~1449年 - 一色教親
1450年~1455年 - 畠山持国
1455年~1460年 - 畠山義就
1460年~1463年 - 畠山政長
1464年~1468年 - 山名是豊
1474年~1478年 - 山名政豊
1478年~1483年 - 畠山政長
1486年~1490年 - 伊勢貞陸
1493年~1507年 - 伊勢貞陸
1508年~1518年 - 大内義興
1518年~1531年 - 細川高国
1532年~1549年 - 細川晴元

山城守
藤原棟世
小畠虎盛
斎藤道三
荒木氏綱
松永久秀従四位下
龍造寺隆信
直江兼続従五位下 (天正11年(1583年)~)
土岐定政従五位下 (文禄2年(1593年)~)
土岐定義従五位下
竹腰正信従五位下 (慶長16年(1611年)~)
土岐頼行従五位下 (寛永元年(1624年)10月28日~)
竹腰正晴従五位下
竹腰正映従五位下
竹腰正武従五位下
竹腰勝起従五位下
竹腰睦群
竹腰正定従五位下
永井尚佐従五位下
永井尚典従五位下

[English Translation]