滋賀県 (Shiga Prefecture)

滋賀県(しがけん)は、琵琶湖を取り囲んでいる近畿地方の内陸県。
都道府県庁所在地は大津市。

概要

令制国の近江国と一致する。
県名は大津が属していた郡名(滋賀郡)から採用された。
共通語では「滋賀」は頭高型アクセントで発音するが、地元の方言(近江弁)では尾高型で発音する。

都道府県の面積一覧は全国で10番目に狭く、内陸県では奈良県、埼玉県に次いで狭い。
その狭い面積の半分以上を山地と琵琶湖が占めており、都道府県の面積一覧2001年 可住地面積の順位は大阪府よりも狭い。

「近江」が「ちかつあはうみ(都近くの淡水湖)」に由来し、現在も滋賀県が「湖国」と呼ばれることからも窺えるように、県の中央に位置する琵琶湖は本県のシンボルである。
産業用水や、近隣府県約1400万人の飲用水の源として重要であり、また観光資源としてもその存在は大きい。
琵琶湖があることから内陸県で唯一漁港を持ち、日本の漁港一覧と、海に面する5府県より多い。
日本海が海上交易の中心だった明治以前には、若狭湾で陸揚げされた物資が琵琶湖を通じて京都、さらには淀川経由で大阪方面へと運ばれており、内水系の重要港湾が数多く存在した。
東海道・東山道(中山道)・北陸道の合流地であることから、陸上交通の要衝でもあった。
そのため中世から近代にかけて近江商人と呼ばれる近江出身の商人が全国各地で活躍するに至った。

明治以降、汽船や鉄道の発達によって県内での物流の積み替え需要は激減し、長らく物流が通過するだけの県となった。
戦後、高速道路の整備やトラック流通の興隆に伴って滋賀県の交通利便のよさが再注目されるようになり、近畿地方の流通拠点や工場の進出が進んだ。
平成に入ってからは、西日本旅客鉄道のアーバンネットワーク拡大によって大阪都市圏のベッドタウンとしても注目されるようになり、従来からの京都都市圏の性格と合わせて、地方では数少ない人口増加県となっている。
ただし開発が進んでいるのは京阪神に近い県南部であり、以前からあった県北部との経済格差が広がる事態となっている。

地理

県の周囲を山脈・山地が取り囲み、中央部に琵琶湖が広がる。
県土の大半が琵琶湖であるかのように思われがちだが、最も面積を占めるのは山林(県総面積の約半分)であり、琵琶湖が占める面積は県総面積の1/6程度である。

地形

山地:比良山地、野坂山地、伊吹山地、鈴鹿山脈

山:伊吹山、比叡山、比良山、三上山(近江富士)

盆地:近江盆地

丘:水口丘陵、饗庭野台地

湖:琵琶湖、余呉湖、西の湖

川:安曇川、姉川、犬上川、愛知川、日野川、野洲川、淀川

気候

全域が内陸性気候で、北部は日本海側気候、南部は瀬戸内海式気候を併せ持つ。
北部や山間部には豪雪地帯が広がり、なかでも県最北端の余呉町は近畿地方で唯一の特別豪雪地帯に指定されている。
1981年には余呉町中河内で積雪量6m55cmを記録している。

自然公園

国定公園

琵琶湖国定公園

鈴鹿国定公園

都道府県立自然公園

三上・田上・信楽県立自然公園

朽木・葛川県立自然公園

湖東県立自然公園

歴史

滋賀県は古くから開発が行われた土地である。
奈良・京都・大坂への物資や人材の供給源や中継地、あるいは都と東国・北国とを結ぶ要衝として発展し、日本の歴史に関わって来た。

古代から中世

国造が分立した時代には、滋賀県はヤマト王権の領土に入っていた。
飛鳥時代には近江宮、奈良時代には紫香楽宮や保良宮が置かれた。
壬申の乱や藤原仲麻呂の乱といった戦乱の舞台となることも度々あった。

平安中期より佐々木氏が近江に起こった。
この佐々木氏は、源頼朝が関東地方で勃興するとこれに積極的に加わり、近江一国の守護職を得た。
以降、六角氏や京極氏と分かれながら、佐々木一族は戦国時代_(日本)に至るまで近江国を支配した。
南北朝期にはばさら大名で有名な佐々木道誉(高氏)が出て京極家の勢威を伸ばした。

本願寺蓮如の大布教が始まると、大津付近は一向宗色が強くなった。
このため、これを喜ばない比叡山が度々攻撃を仕掛けた。
比叡山東麓の坂本 (大津市)は一向宗の堅田と経済的にも対立していたことから、両者の抗争は頻繁であった。
この後に蓮如は大津に一向宗拠点を構えたため、大津が栄えることとなった。

戦国時代

戦国時代に入ると、北近江に浅井氏が台頭する。
形の上で京極氏を奉じた浅井氏は南近江を領する六角氏と抗争する。
織田信長と結んだ浅井長政に至って六角氏を駆逐するが、後に将軍の信長包囲網に加わって信長に抵抗、1573年に滅亡する。

近江国を支配圏に入れた信長は、根拠地として近江盆地に安土城を建設する。
信長の死後は畿内を地盤とする豊臣秀吉と、越前国福井藩を地盤とする柴田勝家の係争地となり、近江北端部で行われた賤ヶ岳の戦いにおける秀吉の勝利で決着が着けられた。
秀吉は初めての領地が長浜市であった関係もあり、多数の近江国民を主に事務方として登用した。
石田三成もその1人である。
そのことによって生じた近江閥と秀吉出身地の尾張閥の対立が関ヶ原の戦いを促したとも言われる。

また戦国時代から江戸時代にかけての甲賀郡では甲賀流忍者が活動していた。

近世

徳川家康は、徳川氏における精鋭軍を率いる井伊氏を、関ヶ原に近い彦根城に入封させて西国の抑えとし、北近江は彦根藩の領土となった。
また、江戸時代にあった藩として、膳所藩、水口藩、大溝藩、西大路藩、近江宮川藩、山上藩、三上藩、交代寄合の最上家の大森陣屋、交代寄合の朽木家の朽木陣屋があった。
江戸時代初期には将軍上洛用御殿が近江国内に水口城のほかに、永原御殿、伊庭御殿、柏原御殿があった。
が、3代将軍家光以降は上洛も途切れ御殿も次第に老朽化して、廃れていった。

また江戸時代には、鎌倉時代から続く商工業が飛躍的に発達し、犬上・愛知・神崎・蒲生・高島の各郡、特に八幡 (近江八幡市)・日野町 (滋賀県)・五個荘町などから近江商人を多く輩出した。

近代

廃藩置県後、1876年8月21日に敦賀県が分割され、嶺南が滋賀県に編入したため、若狭湾に面していた時期もあった。
4年半後の1881年2月7日の福井県発足によって嶺南は滋賀県から分離され、内陸県である現在の領域となった。

地域的特徴

滋賀県は中央部に広大な琵琶湖を持つために、湖を挟んだ地域同士で特徴が異なることが多い。

県西部と県東部

西部(大津市と高島市)は畿内と若狭湾・北陸とを短絡する要地であり、江戸時代には西近江路・鯖街道が通っていた。
現在もそれらを踏襲する国道161号・国道367号や湖西線が通る。
平野部が少なく、琵琶湖のすぐ近くまで比良山地が迫る。
一方の東部(草津市・彦根市・米原市・長浜市など)は畿内と東国・北国を結ぶ要地であり、律令制には東山道、江戸時代には東海道・中山道・北国街道が通っていた。
現在もそれらを踏襲する名神高速道路・新名神高速道路・北陸自動車道・国道1号・国道8号・国道21号や東海道新幹線・東海道本線・草津線・北陸本線が通る。
平野部が大きく開けており、古代より開発が進められた。

県南部と県北部

京阪に近い南部(大津市・草津市・甲賀市など)は文化的に京阪の影響を強く受け、現在は通勤圏として「滋賀府民」の多い地域となっている。
とりわけ大津市は京都市中心部から約10kmしか離れておらず、JR大津駅からJR京都駅までは各駅停車でも9分で行き来ができる。
一方京阪から遠い北部(彦根市・米原市・長浜市など)は京阪だけでなく北陸とも文化的に共通点を持つ。
現在は南部に比べて宅地開発などが遅れており、「南北格差」を主張する声がある。
大津と彦根の都市間対立もあり、明治24年と昭和11年の2度、大津と彦根で県庁の誘致合戦が起こっている。

文化財

世界文化遺産

古都京都の文化財

国宝

園城寺

- 金堂、新羅善神堂

延暦寺

- 根本中堂

勧学院

- 客殿

金剛輪寺

- 本堂

御上神社

- 本殿

光浄院

- 客殿

常楽寺 (湖南市)

- 三重塔、本堂

西明寺 (甲良町)

- 三重塔、本堂

石山寺

- 多宝塔、本堂

善水寺

- 本堂

大笹原神社

- 本殿

長寿寺 (湖南市)

- 本堂

都久夫須麻神社

- 本殿

日吉大社

- 西本宮本殿および拝殿、東本宮本殿および拝殿

彦根城

- 天守、附櫓および多聞櫓

苗村神社

- 西本殿

宝厳寺

- 観音堂

重要伝統的建造物群保存地区

坂本 (大津市)(大津市)

近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区 (近江八幡市)

五個荘町金堂(東近江市)

有形文化財

彦根屏風(彦根市)

渡岸寺(向源寺) 木造十一面観音菩薩(高月町)

観光地

琵琶湖には海津大崎など数々の景勝地があり、とりわけ近江八景は近世より日本有数の名勝として知られた。
現在は湖水浴や釣り、クルージングなどのレクリエーション観光地でもある。

琵琶湖以外の自然環境では、京阪神や中京圏から登山客やスキーレジャー客を集めているほか、近年では里山や田園、針江区などがアグリツーリズム・エコツーリズムの観点で見直されつつある。

奈良や京都に近いこと、太平洋戦争の戦災や戦後の乱開発を免れたことなどから、社寺・城郭・伝統的景観などの歴史的観光資源も豊かである。

[English Translation]