舞鶴市 (Maizuru City)

舞鶴市(まいづるし)は、京都府北部(旧丹後国)の、日本海に面する港湾都市。

概要
1943年5月26日までの舞鶴市については「西舞鶴」も参照せよ。

旧東舞鶴市については「東舞鶴」も参照せよ。

北近畿を代表する港町であり、行政・経済面において中心的な立場を担う。
市内東部にある軍港のほか、造船や硝子といった重厚長大産業都市として発展し、舞鶴都市圏を形成している。

港は大きく二つに分かれており、軍港から発展した東舞鶴(東舞鶴市)と、城下町商港から発展した西舞鶴(舞鶴市(~1943年5月26日))より構成されている。
1943年5月26日以前の舞鶴市に当たる西舞鶴は、旧舞鶴市と呼ばれる事もある(以下、本項では、西舞鶴を便宜上「(旧)舞鶴市」と表記する場合がある)。

地理

日本海に面し、東西に分かれた舞鶴湾のリアス式海岸を臨む都市である。
舞鶴湾口を東西から博奕岬と金ヶ岬が固めた、天然の良港である。

福井県(嶺南)との県境には、舞鶴市最高峰である青葉山 (京都府・福井県)が所在する。
若狭湾から市内東北部に位置する大浦半島にかけては若狭湾国定公園に指定されている。

市街地は東西で分かれて発展している。
それは、市の中部には、東部(東舞鶴)と西部(西舞鶴)を分ける五老岳が峙えているためである。
東舞鶴はかつての軍需都市で、旧軍港や造船などを中心とする重工業地区である。
一方、西舞鶴はかつての城下町で、国や京都府の行政機関や工業団地が集中する商工業地区である。
このように同じ舞鶴市ながら違った顔を持っており、(旧)舞鶴市と東舞鶴市以来の「東西舞鶴の張り合い気質」が今でも残っている。

西舞鶴の市街地のさらに西側に位置する由良川を境に、天橋立で有名な宮津市などと接している。

総面積が10,320haながら宅地面積は1,143haあり、山林面積は6,410haと山地が多く、森と海に囲まれた都市である。
またオオミズナギドリの最後の楽園といわれる冠島は有名。

市内を西日本旅客鉄道舞鶴線・小浜線が横断し、市西部には北近畿タンゴ鉄道宮津線が走っている。
また舞鶴若狭自動車道がある。
現在、東舞鶴駅と西舞鶴駅では駅前再開発が行われている。

気候

日本海側気候に属し、冬季は北西の季節風の影響で気温が低く、雨や雪が多くなりやすい(代表的な格言:「弁当忘れても傘忘れるな」)。
盆地に位置する地域と比べると夏と冬の気温の差が比較的小さく、過ごしやすい気候でもある。
舞鶴市の年間平均気温は14.3℃、年間降水量1786.3mmは、全国152気象台の平均値に近い数値である。

歴史

古代~関ヶ原の戦いまで

舞鶴の地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われている。
その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれた。
古代に国造が分立した時代には、舞鶴は丹国の領土に入っていた。
ヤマト王権が勢力圏を拡大すると、奈良時代に丹国は分割され、舞鶴は丹後国加佐郡に入れられた。

南北朝時代 (日本)には、醍醐寺の荘園が置かれた。
室町幕府の成立によって一色満範が丹後国守護職となり舞鶴を含む加佐郡も一色家の統治下に置かれた。
以後、丹後国は一色家の領国として代々続く。
室町時代後期の応仁の乱において西軍に属した一色氏は没落した。
細川氏や武田氏の攻撃をたびたび受けるようになり、家臣の下剋上もあって国内は混乱する。

戦国時代 (日本)末期の1575年、織田信長から丹波・丹後進攻の命を受けた家臣の明智光秀と細川幽斎らに侵攻され、旧守護職の一色義道は殺され、一色氏は完全に没落した。
信長の命により丹後国は細川藤孝の領地となり、舞鶴が本拠地となった。
(明智光秀は丹波国を与えられ、亀岡市を本拠地とした)。
細川家の手によって舞鶴は開発され、本能寺の変後も細川家の所領は安堵され、そのまま統治した。

1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦いで、細川家は徳川家康率いる東軍に与した。
細川藤孝は当時は小城であった宮津城から、大規模な水堀もあり、守りやすい本城の田辺城 (丹後国)(舞鶴城)に移り籠城(田辺城の戦い)。
西軍の派遣部隊と対戦したが、後陽成天皇の勅命により、城を敵明け渡した(詳細については細川幽斎の項目を参照)。

舞鶴藩祖・京極高三
戦後は京極高知が信濃国飯田藩より入った。
丹後一国を領する丹後藩として加佐郡(舞鶴)も統治した。
後に京極高知の子らにより丹後は分割され、京極高三(京極道誉の末裔)が加佐郡に舞鶴藩(田辺藩)(35000石)を立藩した。
京極高三は宮津城の築城にともない廃城(一国一城令)となっていた舞鶴城(田辺城)の再構築や、城下町の整備などを行い、その後の舞鶴発展の礎を築いた。
のちに京極家は但馬国豊岡藩へ移封となり、
その後は京極高三の娘婿である牧野富成が丹後田辺藩を継ぎ、
牧野家35000石の城下町として幕末まで栄え続けた。

明治から第二次世界大戦まで

明治維新翌年の1869年(明治2年)に版籍奉還が行われた。
その後、紀伊田辺藩との同一藩名を解消するため太政官より田辺藩の名称変更を命じられ、同年6月に田辺城の雅号・舞鶴城に因んで舞鶴藩に改称した。
1871年(明治4年)には廃藩置県により、西舞鶴は舞鶴県の県庁所在地となった。
同年10月には豊岡県に編入され、1876年(明治9年)に京都府へと編入された。

1873年(明治6年)には舞鶴藩の家老であった河村真六によって、舞鶴藩の藩校であり多くの学者を輩出した明倫館が舞鶴市立明倫小学校として開校した。
1889年(明治22年)に市町村制が導入されると加佐郡舞鶴町(西舞鶴)が誕生した。
その後1901年(明治34年)10月には、軍事的要地として東舞鶴に舞鶴鎮守府が設置され、初代長官には東郷平八郎が就任した。
東郷が生み出したとされる肉じゃがは、一説には東舞鶴が発祥地とされる。
それに合わせ東舞鶴の浜村などでは大規模宅地開発が計画された。
京都市に模して碁盤目状の市街地が形成され(南北に一条から九条、東西に軍艦の名前が使われる)、多くの海軍官署が設置された(日本海軍の駆逐艦『雪風』は舞鶴での建造である)。

軍都として順調に発展を遂げた舞鶴であったが、1923年(大正12年)2月のワシントン海軍軍縮条約締結に伴い、舞鶴鎮守府は海軍要港部に格下げされ、同時に海軍工廠も工作部に縮小された。
そのため、一時期人口が減少、市況は沈滞した。
同年9月には横須賀市にあった海軍機関科士官を養成する海軍機関学校が関東大震災で被災した。
その学校は、移設されることになった。
1936年(昭和11年)7月には、再び舞鶴要港部が鎮守府に格上げされると、活況を呈し、人口はピークに達した。

1943年(昭和18年)になるといよいよ戦局が激化すると、舞鶴鎮守府は日本海軍の重要拠点として強化される事となり、東舞鶴市(東舞鶴地区)だけではなく、旧舞鶴市(西舞鶴地区)にも海軍諸施設が多数立地するようになった。
また舞鶴海軍工廠では艦船を中心に蛟龍などの特殊兵器も生産するなど軍需生産拠点としても機能強化が図られ、
両市が一体となって大軍港都を建設することを海軍が強く要請。
旧舞鶴市側は難色を示すが、市役所の位置など諸条件を提示。
東舞鶴市も了承したことから、「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」すべて京都府知事に一任した。
舞鶴市海軍記念日にあたる同年5月27日に東西舞鶴両市は合併した。
市役所は東舞鶴市中舞鶴支所に置かれることとなり、人口は15万人を超え、日本海側有数の大都市として重要な地位を占めるに至った。

戦線が激化するにつれ、舞鶴は後方支援都市として軍需産業が勃興し、人口も増加した。
1945年(昭和20年)7月29日、突如としてアメリカ軍が来襲、海軍工廠を中心に舞鶴を空襲した。
また翌日も舞鶴港を中心に大規模な空襲に見舞われ、多数の死傷者を出した。

1945年(昭和20年)8月15日、終戦。

戦後はアメリカ進駐軍舞鶴分遣隊が駐屯、舞鶴港が政府の在外邦人引き揚げ港に指定され、大陸からの引き揚げの拠点となった。
1945年(昭和20年)から13年に渡って66万人余りの引揚者が舞鶴に降り立ち、懐かしの母国の土を踏みしめた。
その頃の岸壁の母は有名。
現在は、当時の引揚桟橋があった平 (舞鶴市)に、舞鶴引揚記念館が建っている。

戦中から東西分離運動

舞鶴は日本海側唯一の軍事都市として、軍事施設が両舞鶴市に跨がるように設置されるなり、軍都一括管理の重要性が増した。
そこで1943年(昭和18年)に大日本帝国海軍は東西両舞鶴市に合併を要請した。
それを受けて(旧)舞鶴市と東舞鶴市が1943年5月27日に日本の市町村の廃置分合。
新しい舞鶴市が誕生した。
当時の人口は154,953人。

しかし、前述のように、城下町・商業都市として発展し、加佐郡の中心都市と自負する(旧)舞鶴市(西舞鶴)と、
舞鶴鎮守府が設置され、軍需都市として発展した旧東舞鶴市(東舞鶴)では、住民気質が全く異なり、舞鶴市東西分離運動が活発化した。
同時期、戦時体制下に軍により進められた市町村合併の見直しを認める法改正があった。
1949年(昭和24年)11月に西舞鶴地区より東西分離要請書が提出されるに至った。
1950年(昭和25年)3月には西舞鶴地区にて住民投票が行われ、賛成7,046票、反対6,070票、棄権4,483票と賛成多数で舞鶴市をふたたび東西に分割する案が決議された。
京都府議会は「京都北部の中心都市としてだけでなく、府下の唯一の大港湾都市建設に万進すべき」との決議を採択し、東西分離案を否決した。

加佐町編入から現在

1957年(昭和32年)に舞鶴市と関係の深かった加佐郡加佐町を編入して現在の舞鶴市が形成され、
国政調査において初めて人口が10万人を超えた(その後、人口はやや減少している)。
北近畿の中核都市としての地位を確立した。

現在でも海上自衛隊舞鶴地方総監部(1952年設置)や第八管区海上保安本部(1948年設置)があり、国防拠点都市としての性格を持つ。
舞鶴港が1951年(昭和27年)に重要港湾に指定、また1995年(平成7年)には日本海側港湾では初めてFAZ(輸入促進地域)の指定を受けるなど、中華人民共和国や大韓民国、ロシアなど定期コンテナ航路を有する国際貿易港を持つ交流・物流都市としての性格を持つ。
また中丹広域振興局や近畿財務局などが立地する行政都市として発展を続けている。

平成20年4月、海上自衛隊所属である南極観測船「しらせ」がユニバーサル造船にて新造され、進水式が執り行われた。

年表

1871年(明治4年) 廃藩置県により、西舞鶴は舞鶴県の県庁所在地となる。
同年11月に、豊岡県に編入される。

1876年(明治9年) 豊岡県が分割され、京都府に編入。

1889年(明治22年) 舞鶴町制を施行。

1901年(明治34年) 東舞鶴に舞鶴鎮守府設置。

1938年(昭和13年) 西舞鶴が(旧)舞鶴市として、東舞鶴が東舞鶴市として市制を施行した。

1943年(昭和18年) 海軍の要請により(旧)舞鶴市と東舞鶴市が合体合併し、現在の舞鶴市が誕生した。
人口86,051人。

1945年(昭和20年) 浮島丸事件

1948年(昭和23年) 舞鶴海上保安本部が開庁。
舞鶴港が特定港へ指定。

1950年(昭和25年) 舞鶴市の東西分割案について住民投票を実施し可決。
後に京都府議会はこれを否決。

1951年(昭和26年) 舞鶴港が重要港湾に指定。

1952年(昭和27年) 海上保安学校が開校。
海上警備隊(海上自衛隊)地方総監部が開庁。

1953年(昭和28年) 京都府舞鶴事務局(現在の京都府中丹広域振興局)が設置。

1957年(昭和32年) 加佐町編入合併。
人口102,588人。

1963年(昭和38年) 新市役所庁舎が完成。

1965年(昭和40年) 国立舞鶴工業高等専門学校(舞鶴高専)が開校。

1976年(昭和51年) 舞鶴球場が完成。

1990年(平成2年) 舞鶴港に前島埠頭完成。

1991年(平成3年) 舞鶴若狭自動車道が舞鶴西インターチェンジまで開通。

1993年(平成5年) 赤れんが博物館がオープン。

1994年(平成6年) 舞鶴市政記念館が完成。

1995年(平成7年) 五老スカイタワーが完成。

1998年(平成10年) 舞鶴若狭自動車道舞鶴東インターチェンジまで延伸。

1999年(平成11年) 西日本旅客鉄道舞鶴線が電化開業。

2003年(平成15年) JR小浜線が電化開業。

2004年(平成16年) 関西電力舞鶴発電所が運転開始。
同社の協力により舞鶴親海公園、園内のPR船エル・マールまいづる等をオープン。

人口

政治・行政

市役所本庁は東舞鶴にある。

市長:齋藤彰(さいとう あきら)2007年2月11日の市長選挙にて当選

市議会:30名

歴代市長

市長選挙・市議会の会派の構成
2002年(平成14年)11月17日の市議会議員選挙では30名の定員に対して31人が立候補した。
これにより、少数激戦となった。
舞鶴でも国政と同じく自由民主党_(日本)と民主党 (日本 1998-)がともに公認・推薦候補を擁立し、いずれも当選している。
現在において与党的な立場にある保守2会派に加え、民主党系の翔友会も市長の市政運営を評価している。
なお、2005年12月に無所属議員らによって新会派・市民フォーラム・舞鶴が結成された。
現在の市議会においては日本共産党を除く各政党でオール与党体制を構築しているといわれている。

2006年(平成18年)11月19日の市議会議員選挙では30名の定員に対して32人が立候補。
前回に引き続き少数激戦となり、総じて市長与党的な立場にある保守系議員が得票を伸ばした。
なお、この後の議会より特別委員会を、従来の4特別委員会から3特別委員会に再編した。

2007年(平成19年)2月11日の市長選挙では現職の江守光起が引退を表明した事から、市立舞鶴市民病院の諸問題(民間病院への業務委託の是非)と江守市政の継続を唱えて前助役が、谷垣禎一・伊吹文明ら国会議員と一部の府会議員および自民党に推薦された。
また、元市民病院院長や元舞鶴市長(故人)の親族の応援を得て無所属で出馬した元舞鶴市会議員で前府会議員の斎藤によって保守分裂した。
更に国会議員の福山哲郎が後押しする民主党候補の他、共産党候補と合わせて4名が立候補した。
激しい選挙戦となったが結果は斎藤が当選。
今後の市政が注目されている。

予算

2007年度(平成19年)の一般会計は322億3403万円で、医師不足で機能縮小を余儀なくされている舞鶴市民病院への補助助成や舞鶴港貿易振興事業費などに重点をおくもので、
対前年比で0.4%の減少であった。
そのうち市町村民税等の自主財源は2004年に関西電力の火力発電所稼動にともない固定資産税が大幅に増加したことから54.1%まで上昇した。
また特別会計は353億4100万円だった。
そのうち民生費が30.9%、土木費が15.2%であった。

個別事業では和田埠頭整備促進を含む、舞鶴港貿易振興事業費に2億円。
2007年(平成19年)4月にオープンするまいづる智恵蔵の管理運営に2,400万円計上。
倉谷工業団地に進出したケンコーマヨネーズ西日本工場への補助金など企業誘致に2億7,750万円、病院事業会計に30億4,606万円、次期埋立処理場整備事業に4億6,243万円などを計上した。

市債残高は19年度末で718億円と対前年比2億円の減少。
基金・積立金は122億円となる見込み。
京都府北部では最も財務内容は良好な自治体ではあるが、人口減少や舞鶴市民病院等、将来に不安な要素な多い。
舞鶴市は今後も行政改革に取り組む方針である。

国の機関

舞鶴市は、京都府北部の経済・行政の中心都市として、また舞鶴港を擁することから多くの国の出先機関が置かれている。
京都地方裁判所舞鶴支部は、北部の4支部のなかで唯一、地裁の合議事件、家裁の少年事件を受け持っている。
法務省管轄施設である拘置所も北部では唯一、舞鶴拘置支所だけにある。

経済

舞鶴市は戦前・戦中は鎮守府も置かれ、軍都として軍需産業、また戦後は臨海型重厚長大工業都市とだった。
北近畿最大の経済規模を有する。
しかしながら現在は産業構造の変化や、慢性的な土地不足のため経済は停滞気味である。
近年は海上自衛隊舞鶴総監部の増員などがあるものの、舞鶴に立地している企業の支店統合等により人口の減少が続いている。
1975年(昭和50年)の人口97,780人と比べると現在は約3%減少している。

商圏・都市圏

舞鶴都市圏は舞鶴市全域を含め福井県大飯郡高浜町の全域とおおい町の一部、綾部市・宮津市の一部を含んでいる。
商圏人口は約12万人である。
1995年に「らぽーる」(後述)が出来るまでは、大規模小売店は西舞鶴に一箇所(さとう舞鶴店)しか無く、駅前商店街(東舞鶴:三条・八島・大門商店街、西舞鶴:マナイ商店街)が競争とは無縁な経営を続けていた。

近年では東舞鶴駅前に平和堂系列の「エール (京都府)」(本社:舞鶴市、1995年開業)が進出し、西舞鶴にも駅東側にさとう (京都府)系列の「バザールタウン舞鶴」(2000年開業)、駅前に「さとう舞鶴店」が出店している。
また東西両舞鶴市街地を結ぶ白鳥街道(京都府道28号小倉西舞鶴線)沿いや、西舞鶴の国道27号線沿いには郊外型飲食店や娯楽施設、大規模小売店などが立地するなど、北近畿の商業地域として近隣市町村にその商圏を広げている。
それを受けて、前述の駅前商店街は衰退の一途を辿り、空店舗が目立つようになっている。
また、ローソンを始めとする24時間営業のコンビニエンスストアも出店している。

なお、前述した白鳥街道にはバイパス計画や4車線化計画がある。
しかし、既に市街地が形成されていることなどから事業が進んでいない。
そのため、白鳥街道の旧道を拡張しバイパスとする新たな道路計画がある。

将来の展望

舞鶴市は戦中の一時期は人口20万人を数える日本海側での一大工業都市であったが、現在では相対的に地位が低下している。
しかしながら今なお京都府北部では経済的中心都市として重要な地位を占めているばかりか、畿内に最も近い日本海側の拠点である。
そのため、府や国土交通省などが、船舶の大型化や荷役のコンテナ化に対応する港湾にするべく「和田埠頭」(仮称)を整備中である。

なお、中心市街地の人口は1985年度の約8,400人から2000年度には約6,300人に減少しており、また実質商品販売額も約170億円から約110億円と35%も減少している。
市と京都府ではその活性化に力を注いでいる。
現在は東舞鶴駅前を中心に高層マンションが建設されている。

産業

舞鶴市の製造業事業所数は2002年現在で326ヶ所、建設業事業所数は531ヶ所、卸小売・飲食店数は2,390ヶ所である。
そもそも舞鶴市の産業は造船やガラス、木材を中心とした臨海型の重厚長大産業が中心であり、近時では造船業の好況で活気がある。
製造業全体では2700億円の経済規模があり、北近畿では最大の規模である。
しかし、大企業を除くと650億円しかなく、中小零細企業は少ない。
ちなみに工業製品別では第1位が窯業(ガラス)で、約800億円規模であり、続いて飲料缶、輸送機器(造船)、木材産業となっている。

なお第一次産業への従事者は約3,400人で全体の7.3%。
第二次産業は約14,300人で29.9%、第三次産業では約30,000人で62.8%である。
近隣市町村と比べるとサービス業を中心とした第三次産業が盛んであり、商業の街であるとも言える。

最近の大規模な企業進出例として、1990年(平成2年)倉谷地区に市が造成した倉谷工業団地 (京都)に進出した大手清涼飲料メーカーと大手化粧品メーカーや、
2004年(平成16年)12月に喜多工業団地へ誘致成功した日本交通 (大阪)が挙げられる。
この他、2006年には倉谷工業団地の資生堂跡にケンコーマヨネーズが進出することが決定している。

農業

舞鶴市は由良川と与保呂川をもち、市の耕作に用いられる土地は全体の4.7%の1,620haである。
そのうち水田率は77.8%であり、主にコシヒカリを生産している。
また畑に用いられる土地は368haで、主に普通畑である。
総人口に占める農家人口は2000年には11.9%まで低下している(2,831戸。
ちなみに1990年には15%強あった)。
全国と同じく農業就労者の高齢化も進んでいる。

水産業

2000年現在で387世帯が漁業に携わっており、個人漁業経営体332世帯で、 漁業従事者世帯は55世帯である。
舞鶴市でも就労者の高齢化が進んでおり、漁業就業者数に占める65歳未満の割合は59.3%まで低下している。
なお舞鶴港ではいわし類やアジ類が多く水揚げされており、近年では舞鶴近海でとれる岩カキ (貝)を「舞鶴牡蛎」としてブランド化しようとする動きがある。

林業

市全体の林野率は79.0%で27,015ha、人工林率は34.0%で8,597haである。
国有林率は民間林の26,261haに比べ、754haで全体で2.8%になっている。
林家数は1,239戸で、総世帯数に占める林家数の割合は僅3.6%でしかない。
ちなみに保安林は4,322haで全体の16.0%にあたる。

姉妹都市・提携都市

2005年現在の姉妹都市は3市。
国内に姉妹都市・友好都市はない。

海外

ナホトカ 〔ロシア連邦〕

1961年(昭和36年)6月21日姉妹都市提携 - 日露(当時はソビエト連邦)間で初の提携

大連市 〔中華人民共和国〕

1982年(昭和57年)5月8日友好都市提携

ポーツマス (イングランド) 〔イギリス〕

1998年(平成9年)5月15日姉妹都市提携

地域
方言
舞鶴市では京都弁とも福井弁とも違う独特の方言で「ちゃった」に代表される舞鶴弁(ちゃった弁)がある。
前述の「ちゃった」の使用例である「-しちゃった」は標準語では「-された」である。
また舞鶴弁の「-しとってん」は標準語でいう「-しているの?」の疑問形であり、大阪弁の「しとってん」として使われる過去形とは全く異なり、発音のイントネーションが明らかに違う。
日本海側中心に位置する軍港であったためか、基本的に関東弁、関西弁と違い、標準語に限りなく近い言語、発音であるのが特色である。

疑問文の語尾に付ける「~か?」が、京都や大阪等では「~け?」となることが有るが、舞鶴では「~こ?」となる。
この「~こ?」には京都の人間もかなりの違和感を感じる。

「っ」を多く使うことが有る。
標準語の「持って行ってたのですか?」は、「持ってっとったんこ?」となる。

なお、舞鶴弁の「ちゃった」にちなんで「舞鶴防衛戦隊チャッタマン」というローカルヒーローがあり、同市内を中心に各種イベントに出演、人気を博している。

出生率・高齢化率

京都府全体の高齢化率(19%)に比べ、舞鶴市は若年層の域外流出が多く、高齢化率は比較的高めである。
また東西市街地の高齢化率が近年高まっており、府と市では対策に乗り出している。
出生率は1.8を超えるなど全国的な傾向からは高いものの、2004年には人口動態が初めて自然減となっている。

舞鶴市の高齢化率:21%(市街地に限定すると28%)

平均寿命:男性77.1歳、女性84.4歳

舞鶴市の出生率:1.82(京都府全体では1.28)

保健福祉

健康・医療

舞鶴市には国立病院機構・舞鶴医療センター、市立舞鶴市民病院、舞鶴赤十字病院、舞鶴共済病院と大型総合病院が4つある。
他にも9つの大型病院が集積している。
また、中小規模の病院を加えると約75もの病院が市内各地に点在している。
市内に拠点をおく医師は211人。
宮津市や与謝郡、福井県大飯郡からの通院者も多い。

さらに、京都府北部の医療拠点としての位置付けられている。
京都府立の京都府立舞鶴こども療育センターや盲・聾学校などが置かれている。

子育て

保育所 - 公立5ヶ所、私立9ヶ所、認可外保育園6ヶ所

地域子育て支援センター - 単独型1ヶ所、保育園併設型2ヶ所

放課後児童健全育成事業(いわゆる学童保育) - 10ヶ所で実施

児童養護施設 - 2施設

高齢者福祉

高齢者福祉 - 養護老人施設1ヶ所、老人福祉センター2ヶ所

障害者福祉 - 身体障害者福祉センター1ヶ所、聴覚言語障害者支援センター1ヶ所

教育・研究機関

小学校、中学校および高等学校の他、工業高等専門学校(高専)、大学の研究機関および海上保安庁の施設等機関である海上保安学校がある。
また、2005年には府立の養護学校(現特別支援学校)も建設された。

2003年(平成15年)より京都精華大学と協同で、舞鶴自然文化園の活用による地域づくりなど様々な分野で連携を深めている。
2005年(平成17年)3月3日には市と京都精華大学が「舞鶴サテライト事務所」を設置することで合意。
それに先立ち「準備室」が開設された。

交通

JR京都駅から

特別急行列車「まいづる (列車)」・「タンゴディスカバリー」 - (東舞鶴駅まで所要約1時間30分)

特急「はしだて (列車)」・「たんば (列車)」・「きのさき (列車)」- 綾部駅で舞鶴線普通列車に乗換(東舞鶴駅まで所要約1時間40分程度)

JR大阪駅から

特急「北近畿 (列車)」・「タンゴエクスプローラー」・「文殊 (列車)」 - 福知山駅で舞鶴方面行き普通列車などに乗換(東舞鶴駅まで所要約2時間10分程度)

その他

舞鶴若狭自動車道 - (神戸から舞鶴東ICまで所要約1時間程度)

京都・大阪・神戸・東京品川BTから直通バスあり(京都便以外は予約必要)

鉄道

舞鶴線は日露戦争を控え着工を急ぐ必要から私設鉄道全盛の時代にも関わらず官営で建設された。
1904年(明治34年)11月3日に開通した。
後に支線として舞鶴港線や中舞鶴線も建設されたが、現在はいずれも廃線されている。
1987年(昭和62年)4月1日に西日本旅客鉄道に継承され、1991年(平成3年)には舞鶴線を担当する舞鶴鉄道部が新設された。
1996年(平成8年)7月13日には東舞鶴駅が高架化された。
1999年(平成11年)9月25日には西舞鶴駅が橋上化されている。

中心駅:東舞鶴駅(JR西日本 舞鶴線・小浜線)

その他市内にある駅:西舞鶴駅、真倉駅、松尾寺駅、四所駅、東雲駅 (京都府)、丹後神崎駅

路線

舞鶴線

小浜線

北近畿タンゴ鉄道 北近畿タンゴ鉄道宮津線

バス

京都交通
神戸、京都、大阪そして梅田への高速バスがある。

船舶

新日本海フェリー - 舞鶴港~小樽港

舞鶴汽船 ※2004年9月末をもって廃止

舞鶴港遊覧船

道路

1991年(平成3年)3月26日に舞鶴自動車道(現・舞鶴若狭自動車道)の福知山インターチェンジ - 舞鶴西インターチェンジ間が開通し、市内初の高速道路が開通した。
また 1998年(平成10年)3月8日には京都縦貫自動車道の舞鶴大江インターチェンジが開通。
同年3月18日には念願であった舞鶴西IC~舞鶴東IC間が開通し、ようやく高速道路網が整備された。

2006年(平成17年)11月8日に舞鶴市東地区と綾部市上林地区を結ぶ、京都府の府道一覧京都府道51号舞鶴和知線の「菅坂バイパス」(延長2.3キロ)が開通した。

観光

室町時代から安土桃山時代にわたって丹後国の国府として発展した舞鶴には、数多くの史跡がある。
また、かつて舞鶴鎮守府が設置されていた関係で、旧海軍に由来する施設も多い。

「倉庫群と舞鶴湾」を望むコースは、遊歩百選にも選ばれている。

土・日・祝日には、点在する観光名所を循環する舞鶴観光周遊バス(運転協力費100円)が運行されている。

名所・旧跡

舞鶴赤レンガ倉庫群 - 12棟の赤れんが倉庫群

赤れんが博物館

舞鶴市政記念館

まいづる智恵蔵

海軍記念館

北吸浄水場 - 配水池と上屋が「舞鶴旧鎮守府水道施設」として国の重要文化財に指定

神崎煉瓦ホフマン式輪窯

舞鶴引揚記念館

松尾寺 (舞鶴市) - 西国三十三箇所第29番札所

金剛院 (舞鶴市)

円隆寺 (舞鶴市)

朝代神社 - 旧府社

本行寺 (舞鶴市) - 丹後国主 京極高知の菩提寺

桂林寺

多禰寺 - 鎌倉時代作の金剛力士像(重要文化財)がある

五老スカイタワー - 近畿百景第1位に選ばれる舞鶴湾を一望

明倫館正門 - 江戸時代に藩主牧野宣成が開いた藩校の正門

田辺城 (丹後国)(舞鶴城)

舞鶴市郷土資料館

吉田のしだれ桜 - 中院通勝卿配流遺跡、瑠璃寺 (舞鶴市)

安寿姫塚

行永家

舞鶴クレインブリッジ

舞鶴港遊覧船 - 舞鶴港東舞鶴三条海岸から東舞鶴湾内をめぐる遊覧船が発着

倉庫群と舞鶴湾 - 遊歩百選に選ばれる道

体験型施設等

舞鶴親海公園

舞鶴自然文化園

青葉山ろく公園(キャンプ場/パターゴルフ/陶芸館)

戸島(京都府青少年の島) 通称:ポンポコ島

野原体験漁業管理施設「しおのめ」

舞鶴ふるるファーム

マリンレジャー

竜宮浜海水浴場

野原海水浴場

神崎海水浴場

特産品

カニ(ズワイガニ)

水産練製品(かまぼこ、ちくわ等)

舞鶴かまぼこ - 地域ブランド認定第1号のひとつ(2006年)

丹後とり貝

舞鶴かき

岩ガキ

舞鶴かき丼、舞鶴岩がき丼

万願寺甘とう(万願寺唐辛子)

大浦みかん

祭事・催事

舞鶴つつじまつり(5月)

仏舞(5月)

まいづる田辺城まつり(5月)

みなと舞鶴ちゃったまつり(7月)

赤煉瓦サマー・ジャズin舞鶴(8月)

まち遊びフェスティバル(8月)

城屋の揚松明(8月14日)

小橋の精霊船(8月15日)

吉原の万灯籠(8月16日)

舞鶴さかなまつり(10月)

赤れんがフェスタ (舞鶴)(10月)

その他

郵便番号は以下の通り(2006年9月19日変更)

東舞鶴郵便局:625-00xx、625-85xx、625-86xx、625-87xx、625-01xx
西舞鶴郵便局:624-08xx、624-09xx、624-85xx、624-86xx、624-87xx、624-01xx
市外局番:市内全域「0773」
総世帯数:34,000世帯(平成20年4月1日)
外国人登録者数:1,361人(2004年)

[English Translation]