賀名生 (Ano)

賀名生(あのう)は、奈良県五條市(旧吉野郡西吉野村)にある丹生川の下流沿いの谷である。
南北朝時代_(日本)(吉野朝時代)、南朝_(日本)(吉野朝廷)の日本の首都となった地域の一つ。

もと「穴太」(あなふ)と書いたが、後村上天皇が皇居を吉野からこの地に移した際に、南朝による統一を願って叶名生(かなう)と改め、さらに1351年(正平 (日本)6年、北朝_(日本)の観応2年)、いったん統一が叶うと(正平一統)「賀名生」に改めたという。
明治になって、読みを「かなう」から原音に近い「あのう」に戻した。

後村上天皇の遷幸より前の1336年(延元元年、北朝の建武 (日本)3年)12月、後醍醐天皇は京都の花山院から逃れ出てまず穴太に至ったが、皇居とすべきところがなかったので吉野に至った。

歴史
1347年(正平2年、北朝の貞和3年)正月に楠木正行が四條畷で戦死したのち、南朝では北朝方(室町幕府、足利軍)の来襲を防ぎ得ないのを知り、吉野を引き払い穴太に移った(皇居は総福寺であろうという)。
1348年(正平3年、北朝の貞和4年)、高師直率いる足利軍が吉野に来襲し、皇居、社寺などを焼き払い帰った。

1351年(正平6年、北朝の観応2年)、室町幕府の内紛(観応の擾乱)により、足利尊氏が一時的に南朝に降伏し、一旦南朝に統一された(正平一統)。
しかし具体的な和睦の条件は折り合わなかった。

1352年(正平7年、北朝の観応3年)に後村上天皇は北征軍を興し、一度は住吉から山城の男山(京都府八幡市)に移った。
尊氏の子である室町幕府第2代将軍足利義詮は正平一統を破棄し、再び北朝を擁立した。
5月、北征軍は京都を回復することができずに賀名生に帰ったが、この時北朝方の皇族(光厳天皇、崇光天皇、直仁親王)を拉致し、さらに北朝の三種の神器(南朝は偽器と主張)を押収した。
北朝方は、出家を予定していた弥仁親王を)を後光厳天皇として即位させた。

1354年(正平9年、北朝の文和3年)10月に河内天野山金剛寺 (河内長野市)(大阪府河内長野市)に、6年後の1359年(正平14年、北朝の延文4年/応安元年)には河内観心寺(河内長野市)に移り、さらに翌年住吉に移って住吉行宮の祠宮津守氏の館を皇居とし1368年(正平23年、北朝の貞治7年)ここで死去した。

のち長慶天皇を経て後亀山天皇が践祚するに及び、1373年(文中2年、北朝の応安6年)8月よりまた賀名生を皇居とし以後1392年(元中9年、北朝の明徳3年)京都に帰って三種の神器を後小松天皇に伝えるまで20年間、賀名生は南朝の皇居の所在地であった。

江戸時代は、当初は松倉氏の大和五条藩領地、後に天領(江戸幕府直轄領)。
幕末には天誅組の吉村虎太郎がこの地を訪れ、皇居跡で「賀名生皇居」の扁額を書いた。

明治以降は西吉野村に属した。
日本国有鉄道五新線が通る予定で、途中の阪本まで建設が進められていたが中止され、用地の一部はバス (交通機関)専用道路に転用された。
2005年(平成17年)9月25日、市町村合併で五條市の一部になった。

賀名生の皇居は、従者の住まいだった一部が現存する。
堀信増が提供した住居であるため(現在でも子孫が所有)、「堀家住宅 賀名生皇居跡」と呼ばれる。
1998年(平成10年)に解体修理を行った。
2003年(平成15年)1月18日、後醍醐天皇に下賜された現存最古の日本の国旗(当時は国旗ではなかったが)や、天誅組の寄せ書きなどが盗難にあった。
現在、国重要文化財に指定されている。
春と秋に有料で一般公開、予約制。

南北朝時代から賀名生ウメ林が有名であり、明治以降は実を収穫するための植林もされた。
さらに、1923年(大正12年)、皇太子(後の昭和天皇)成婚を記念して5千本の梅が植林された。
現在はカキノキの生産も盛んである。

交通
奈良交通バス五條西吉野線(五新線用地)賀名生バス停下車、または奈良交通南紀営業所八木新宮線(十津川・本宮いでゆライン)賀名生和田北口バス停下車。

[English Translation]