カバネ (Kabane (hereditary title))

姓(カバネ)とは、古代日本のヤマト王権において、大王 (ヤマト王権)(おおきみ)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。

その発祥の経緯は明確ではない。
ヤマト王権が成熟し、大王家を中心として有力氏族の職掌や立場が次第に確定していく中で、各有力者の職掌や地位を明示するために付与されたと考えられている。

職掌を示す姓(カバネ)としては、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたのぬし)、稲置(いなぎ)などがある。
地位・格式・立場を示す姓(カバネ)としては、公(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)、村主(すぐり)などがある。
その他の姓(カバネ)としては、百済滅亡後に亡命してきた百済王族に与えられた百済王氏(こにきし)などがある。

姓(カバネ)の中では、臣、連が一番格式が高いとされ、最も有力な者には更に大臣 (古代日本)(おおおみ)、大連 (古代日本)(おおむらじ)の姓(カバネ)が与えられた。

姓(カバネ)の制度は、壬申の乱(672年)の後、天武天皇が制定した八色の姓によって有名無実化されていき、臣、連ですら序列の6、7番目に位置づけられ、その地位は、実質上、無意味化した。
代わって、天皇への忠誠心がある有能な人材には新たに作られた真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)の姓(カバネ)が与えられた。
しかしながら、奈良時代を過ぎるとほとんどの氏族の姓(カバネ)が朝臣(あそん)になってしまい、八色の姓も甚だ形式的なものに変質してしまう。

この姓(カバネ)は、後世での扱われ方からヤマト王権当初から氏族単位に賦与(ふよ)されていたと考えられていたが、実証的な文献研究により、ヤマト王権当初の姓(カバネ)は個人単位で付与されていたことが明らかとなったと主張する人がいる。
それは十分考えられることである。

しかし、仮にそうであった場合でも、律令的氏姓制度が形骸化するに連れて、氏(ウヂ)と姓(カバネ)とが世襲化により一体化され、その構成員もいたずらに増え過ぎてしまったため、のちにヤマト王権(天武天皇)自身が八色の姓(やくさのかばね)によって全く新たな官位制度と連動させつつ氏姓の制(うじかばねのせい)を実質的に無意味化せざるを得なかった。
しかも、世襲化されている旧来の姓(カバネ)ではなく、全く新たな姓(カバネ)である真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)を導入し、それらを賦与ないし継承させる氏上(うじのかみ)を直系親族に限定し、その許認可権すら当初は天武天皇自ら握っていたという事実は動かない。

そして、この八色の姓も、天武天皇没後、旧来の氏姓の制と同様に早々に機能不全の道を辿っていく。

ヤマト王権から明治維新までかろうじて命脈を保った姓(カバネ)は、藤原氏永敏(大村益次郎)・藤原朝臣利通(大久保利通)・菅原氏重信(大隈重信)・源氏有朋(山縣有朋‎)などに代表される朝臣、「越智氏博文」(伊藤博文)などに代表される宿禰である。
これらの真偽はともかくとして、天皇および朝廷に仕えるために必要不可欠とされた氏(ウヂ)・姓(カバネ)が復古的に用意されただけ、という意味合いが強い。

明治政府は、1870年の平民苗字許容令、1872年(明治5年)の壬申戸籍編纂の二段階によって「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」の一元化を成し遂げ、旧来の氏(ウヂ)・姓(カバネ)を公称することを自ら廃止したため、事実上、「藤原」などの旧来の氏(ウヂ)・「朝臣」などの姓(カバネ)は、その役割を完全に終えた。
この壬申戸籍以後、旧来の姓(カバネ)は、それと一体化していた旧来の氏(ウヂ)とともに、法的根拠をもって一本化された「氏(シ、うじ)=姓(セイ、本姓)=苗字=名字」に完全に取って代わられることとなる。
この新たな氏姓制度が日本国民全員に確立したのは、1875年(明治8年)の平民苗字必称令によってである。

[English Translation]