本城惣右衛門覚書 (Honjo Soemon Oboegaki)

本城惣右衛門覚書(ほんじよそうえもんおぼえがき)は、本能寺の変で明智光秀に従軍していた光秀配下の武士 本城惣右衛門が、江戸時代に入って晩年、親族と思われる三人の人物に宛てた記録である。
奈良天理図書館蔵本。

本能寺の変関係者では明智軍の当事者の唯一の一次資料で貴重である。
天理図書館報「ビブリア」 NO.57 昭和49年6月に全文が掲載され注目を集めた。

発見からの経緯

1930年(1930年)1月古典籍の収集家林若樹氏により不明者から購入、雑誌「日本及日本人」に発表されその存在が知られる。
林若樹氏死後に蔵書が処分され転売される。

1966年(1966年)天理図書館が購入、蔵書となる。

内容

その内の一番乗りで本能寺に侵入したという部分を掲載する。

なお、このとき本能寺は織田信長の専用宿舎として僧侶は他に出されていたため、広大な寺域に百人程度の供回りしかおらず無人に近かった。

あけちむほんいたし、のぶながさまニはらめさせ申候時、
ほんのふ寺へ我等よりさきへはい入候などゝいふ人候ハゞ、
それハミなうそにて候ハん、と存候。

其ゆへハ、のぶながさまニはらさせ申事ハ、
ゆめともしり不申候。

明智が謀反をして、信長様に切腹させたとき、本能寺に我らより一番乗りに侵入したというものがいたらそれはみな嘘です。

その理由は、信長様をねらうとは夢にも知らなかったからです。

其折ふし、たいこさまびつちうニ、
てるもと殿御とり相ニて御入候。

それへ、すけニ、あけちこし申候由申候。

その時は、太閤様が、備中に毛利輝元殿を討ちに侵攻していました。
その援軍に明智光秀が行こうとしていました。

山さきのかたへとこゝろざし候へバ、
おもひのほか、京へと申し候。

我等ハ、其折ふし、いへやすさま御じやうらくにて候まゝ、
いゑやすさまとばかり存候。

ほんのふ寺といふところもしり不申候。

ところが山崎の方に行くと思いましたのに、そうではなくて京都へ命じられた。
我らはその時は家康様が御上洛しておられるので、家康様を討つとばかりに思っていました。
(目的地の)本能寺というところも知りませんでした。

人じゅの中より、馬のり二人いで申候。

たれぞと存候へバ、さいたうくら介殿しそく、
こしやう共ニ二人、ほんのぢのかたへのり被申候あいだ、
我等其あとニつき、かたはらまちへ入申候。

軍列の中から乗馬した二人がおいでになった。
誰かと思えば、斉藤くら介(利三)殿御子息と小姓でした。
本能寺の方に行く間、我らはその後に付き、片原町へ入っていきました。

それ二人ハきたのかたへこし申候。

我等ハミなみほりぎわへ、ひがしむきニ参候。

そして二人は北の方に行かれた。
我らはみな堀際へ東向きに行きました。

ほん道へ出申候、其はしのきわニ、人一人い申候を、
其まゝ我等くびとり申候。

本道へ出ました。
その橋の際に人一人がいたので、そのまま我らはその首を取りました。

それより内へ入候へバ、もんハひらいて、
ねずミほどなる物なく候つる。

其くびもち候て、内へ入申候。

そこより(本能寺の)内へ入りましたが、門は開いていて鼠ほどのものもいませんでした。
先ほどの首を持って内へ入りました。

さだめて、弥平次殿ほろの衆二人、きたのかたよりはい入、
くびハうちすてと申候まゝ、だうの下へなげ入、
をもてへはいり候へバ、ひろまニも一人も人なく候。

かやばかりつり候て、人なく候つる。

おそらく北の方から入った弥平次殿と母衣衆の二人が、「首はうち捨てろ」とおっしゃるので従い、堂の下へ投げ入れ、(堂の)正面から入りましたが、広間にも一人も人がいないでした。
蚊帳が吊ってあるばかりで人がいません。

くりのかたより、さげがミいたし、しろききたる物き候て、
我等女一人とらへ申候へバ、さむらいハ一人もなく候。

うへさましろききる物めし候ハん由、申候へ共、
のぶながさまとハ不存候。

其女、さいとう蔵介殿へわたし申候。

庫裏の方より、下げ髪の、白い着物を着た女一人を我らは捕らえましたが侍は一人もおりません。

(女は)「上様は白い着物をお召しになっています」と申しましたが、それが信長様だとは存じませんでした。

その女は、斎藤蔵介(利三)殿に渡しました。

御ほうこうの衆ハはかま・かたぎぬにて、
もゝだちとり、二三人だうのうちへ入申候。

(信長様の家臣である)御奉公衆は袴に片衣で、股立を取り、二三人が堂の中へ入ってきました。

そこにてくび又一ツとり申候。

其物ハ、一人おくのまより出、おびもいたし不申、
刀ぬき、あさぎかたびらにて出申候。

其折ふしハ、もはや人かず入申候。

それヲミ、くずれ申し候。

我等ハかやつり申候かげへはいり候へバ、
かの物いで、すぎ候まゝ、うしろよりきり申候。

そこで首を又一つ取りました。

その者は、一人奥の間より出てきて、帯もしていませんでした。

刀を抜いて浅黄色の帷子を着て出てきました。

その時に、かなりの人数の(我らの)味方が入ってきました。

それを見て敵は崩れました。

我らは吊ってある蚊帳の陰に入り、この者が出てきて通り過ぎようとしたときに後ろから切りました。

其時、共ニくび以上二ツとり申し候。

ほうびとして、やりくれ被申候。

その時の首と(先に寺の門前で取った首)で二つ取りました。
褒美として槍をいただきました。

のゝ口ざい太郎坊ニい申候。

のの口ざい太郎坊の配下にいたときのことです。

[English Translation]