根白坂の戦い (Battle of Nejirozaka)

根白坂の戦い(ねじろざかのたたかい)は、に日向国根城坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦である。

経歴

九州制覇を目指す島津義久は、天正14年(1586年)に入ると豊後侵攻 (島津氏)を開始し、12月には戸次川の戦いで豊臣・大友連合軍を撃破し、大友義統は島津氏の勢威を恐れて豊前国に逃亡し、豊後はほぼ島津氏の支配下に入った。

一方、宿敵の徳川家康を臣従させて後顧の憂いを無くしていた豊臣秀吉は、天正15年(1587年)1月に九州征伐の大動員令を発し、畿内や中国・四国の諸大名による大軍を九州に送り出した。
3月には秀吉の弟・豊臣秀長の軍勢が豊前小倉において先着していた毛利輝元や宇喜多秀家、宮部継潤ら中国の軍勢と合流し、豊臣軍の総勢は10万になった。
これにより豊前・豊後国の土豪などは島津氏を見限って豊臣氏に帰順し、さらに肥前国の龍造寺政家と鍋島直茂も豊臣氏に帰順する。

これに対して島津義久は圧倒的に兵力差があり過ぎることから戦線の縮小を図った。
戸次川の戦い後に義久の弟・島津家久が占領していた豊後府内城から家久は後方の松尾城 (日向国)に撤退し、代わって島津家久の兄・島津義弘が府内城に入って守備を固めたのである。
しかし豊臣秀長率いる豊臣軍によって府内城が攻められるや、圧倒的な兵力・物量の差を悟った島津義弘は3月15日の夜半に風雨にまぎれて海路で府内城を脱出し、弟の家久が守る松尾城に退却した。
これにより、先の豊後侵攻で島津軍の侵攻でも陥落しなかった岡城 (豊後国)の志賀親次や鶴崎城の妙林尼などが勢いづいた。
島津軍は大友軍の追撃まで受けて多くの犠牲を出しながら日向まで撤退した。
3月下旬に入ると豊臣秀長が日向に侵攻し、3月29日には日向北部の要衝である松尾城が陥落した。
そして日向南部の要衝・高城を包囲する。
しかし高城は堅固であり、守将も島津軍きっての勇将・山田有信だったため、豊臣の大軍も一筋縄ではいかない。

豊臣秀吉は3月1日に大坂を出陣し、3月29日に豊前小倉に着陣した。
秀吉は島津氏に従属する筑前国の秋月種実の支城・岩石城を4月1日に落とした。
秋月種実は秀吉に各個撃破されることを恐れて支城の益富城を破却して全軍で古処山城に立て籠もった。
ところが秀吉得意の築城術で破却したはずの益富城が修復され、ここを拠点に古処山城が攻撃されたため、種実は戦意を失って4月3日に秀吉に降伏した。
その後、秀吉は4月10日に筑後国に侵攻し、4月16日には肥後国隈本(熊本)、4月17日には宇土に進軍する。
この間、秀吉の勢威を恐れて諸国の土豪は次々と降伏していった。

一方、島津義久は西から秀吉の軍勢が南下していることを知って慌てた。
義久は秀長の軍勢に備えるために薩摩国・大隅国などの軍勢の大半を日向都於郡城に結集していた。
そのため、九州西側の守備は手薄だったのである。
このため、義久は高城を包囲する秀長の軍勢に決戦を挑んだ。
4月17日夜半、島津軍は根城坂を急襲した。
この根城坂は高城の南側に位置する坂で、島津軍が高城を救援するなら絶対に通らないといけないルートだった。
そのため、秀長や黒田孝高らも島津軍の後詰(救援)を警戒して根白坂の守備を特に固めていた。

このときの両軍の兵力は諸説があって定かではないが、豊臣軍は8万、島津軍は3万5000ほどだったといわれる。
島津軍では大将の島津義弘が自ら前線に立って戦ったとまで伝えられるほど奮戦した。

が、豊臣軍は宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて堅守。
島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥った。

ここに秀長の本隊が救援にきたが、状況を見た軍監の尾藤知宣は救援は不可能、島津の軍に当たるべからずと秀長に進言し、秀長は救援の中止を受け入れた。

しかし、秀長麾下の藤堂高虎が500名と宇喜多秀家麾下の戸川達安の手勢で継潤の救援に向かい、島津軍を翻弄。
ここに小早川・黒田勢が挟撃をしかけたため、島津軍は大きな損害を出して敗走した。

主力決戦に敗れた島津義久は戦意を失い、剃髪して龍伯と号した上で5月8日に豊臣秀吉に降伏した。
その後、龍伯があくまで徹底抗戦をしようとした島津義弘や新納忠元らを説得して島津氏が完全に秀吉に降伏したのは、5月下旬のことである。

後に薩摩は島津義久に、大隅は島津義弘に、日向の一郡は島津義弘の子・島津久保に与えられた。
以後、義久は弟の義弘に家督を譲って二頭政治を行ない、島津家は豊臣政権、江戸幕府の下でこの2国1郡の領土を明治時代まで守り抜いていくことになる。

[English Translation]