護憲運動 (Goken Undo (Constitution protection movement))

護憲運動(ごけんうんどう)とは、大正時代に発生した立憲政治を擁護する国民や政党などの運動。
憲政擁護運動(けんせいようごうんどう)とも呼ばれている。

なお、第一次憲政擁護運動については大正政変の項目も併せて参照のこと。

第一次憲政擁護運動の背景と発端

明治時代から大正時代にかけて、日本の政治は元老と呼ばれる9人の実力者たちによって牛耳られていた。
この9人は江戸幕府を倒す討幕運動のとき功績を挙げた人物たちで、山縣有朋、井上馨、松方正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文の9名のことである。
この9名のうち、8名は薩摩藩・長州藩の出身者だった。
法的な規定は無かったが、大日本帝国憲法の下で首相を決定することができる権限を持っていた人物たちで、いわゆる藩閥政治を形成していた。

しかし明治時代が終わり、大正時代という新たな時代を迎えた国民は、このような藩閥による政治を批判し、憲法に基づく民主的な政治を望んでいた。
そのような最中の大正元年(1912年)12月、第2次西園寺公望内閣の陸軍大臣・上原勇作が陸軍の二個師団増設を提言する。
しかし西園寺は日露戦争後の財政難などを理由にこれを拒否した。
すると上原は単独で陸相を辞任してしまう。
軍部大臣現役武官制により、後任の陸相を据えることができなかった西園寺内閣は、こうして内閣総辞職を余儀なくされてしまった。

西園寺の後継内閣には、陸軍大将の桂太郎が第3次桂内閣を組閣することとなった。
民衆はこれを、山県の意を受けた桂が陸軍の軍備拡張を推し進めようとしたものとみなし、国民も議会中心の政治などを望んで藩閥政治に反発し、「閥族打破・憲政擁護」をスローガンとする憲政擁護運動(第一次)が起こったのである。

第一次憲政擁護運動

立憲政友会の尾崎行雄と立憲国民党の犬養毅らはこれに反発し、お互いに協力しあって憲政擁護会を結成する。

大正2年(1913年)2月5日、議会で政友会と国民党が桂内閣の不信任案を提案する。
その提案理由を、尾崎行雄は次のように答えた。

桂は不信任案を避けるため、苦し紛れに5日間の議会停止を命じた。
ところが停会を知った国民は怒り、桂を擁護する議員に暴行するという事件までが発生する。
だが、桂もこれで黙ってはいなかった。
尾崎行雄らに対して詔勅を盾にして不信任案を撤回するように圧力を加えたのである。
尾崎はやむなくこれを了承するしかなかった。

2月10日。
この日に再び議会が開かれることとなっていた。
ところが過激な憲政擁護派らが上野恩賜公園や神田などで桂内閣をあからさまに批判する集会を開き、その集会での演説に興奮した国民の一部が国会議事堂に押し寄せるという事件を起こしたのである。
このような中で、桂は議会を解散して政友会と国民党などの勢力を削ぐために、政府干渉による総選挙を行なうことで変事に対応しようとした。
ところが衆議院議長の大岡育造が議会の解散に猛反対したために解散させることができず、桂はひとまず、3日間の議会を停会を命じるだけであった。

一方、桂の煮えきらぬ態度に怒り狂った国民は、国民新聞社や警察などを襲った。
さらにこの憲政擁護運動は東京だけでは収まらず、関西などにおいても新聞社や議会の邸宅が襲われるなど、各地で桂内閣に反対する暴動が相次いだ。
このような中での2月11日、桂内閣は総辞職を余儀なくされたのである。

第一次憲政擁護運動の意義

大日本帝国憲法の下で、国民による運動で内閣が倒されたのはこのときだけである。
そのため、このことは大正政変とも呼ばれ、藩閥政治の行き詰まりと民主政治の高まりを示すこととなったのである。

桂内閣の後に組閣したのは、海軍大将で薩摩藩出身の山本権兵衛(第一次内閣)であった。
山本は桂の二の舞を演ずることを避けるため、軍部大臣現役武官制を緩和(陸海軍の大臣は現役の大将・中将から出すこととなっていたが、山本は政党の軍部に対する影響を強めるために、予備役や後備役にまで拡大した)して政党に譲歩した。
このようにして、国民に対して融和的な政治を執ることで政局の安定化を図っている。
このような後継内閣の政策を見てもわかるように、第一次憲政擁護運動が成した意義は大きかったと言えよう。

第二次憲政擁護運動の背景と発端

原敬と高橋是清によって政党内閣による政治が行なわれたが、それも4年足らずで終わった。
さらにこの頃になると、国民の間では普通選挙権を求める運動が日増しに高まっていた。

このような中での大正12年(1923年)12月27日、帝国議会の開院式に望んだ摂政裕仁親王(後の昭和天皇)が、自称共産主義者の難波大助という青年によって狙撃されるという事件が起こったが、幸いにして裕仁親王は無傷であった(虎ノ門事件)。
しかしこの事件により、第二次山本権兵衛内閣は責任を取る形で総辞職を余儀なくされ、代わって枢密院議長の清浦奎吾に内閣組閣の大命が下った。
しかし清浦内閣は、総理大臣と外務陸海軍大臣を除く全ての閣僚が貴族院 (日本)議員から選出されるという超然内閣であった。

この頃には国民の間で政党内閣の復活や普通選挙要求などが日増しに高まっていたこともあって、国民の間で再び憲政擁護を求める運動が発生した。
いわゆる第二次憲政擁護運動である。
ただし、第二次憲政擁護運動は第一次のように暴動が起こることもなく、それほど盛り上がることもなかった。
これは当時、清浦内閣を翌年5月10日に予定されていた総選挙施行のための期間限定の選挙管理内閣であり、中立性に配慮した結果、政党色のない貴族院議員が占めるのは仕方がないとする見方もあったからである。
憲政会の加藤高明と革新倶楽部の犬養毅が、清浦内閣を批判してその打倒を進めるという、第一次と較べるとあまりにも小規模な運動に過ぎなかったのである。

第二次憲政擁護運動

大正13年(1924年)1月15日、立憲政友会総裁の高橋是清も、加藤や犬養に呼応して清浦内閣打倒を決断する。
この頃、政友会は衆議院で278名の議席を取る第一党であり、高橋も当初は清浦内閣を支持していた。
しかしそれは、半年間の期限付の内閣であると見なされていたこと、清浦内閣を支持する勢力が衆議院でいなければ社会主義者などの過激な運動が高まる危険性を恐れてのことであった。
高橋も本心では清浦内閣にはあまり好意的ではなかったのである。

しかし床次竹二郎らが犬養らと結託して清浦内閣を倒すことに反対し、床次らは政友会の反対派148名を集めて政友会を脱党して政友本党を結成する。
この政友本党は政友会に残った130名を凌ぐ148名であったことから、第一党となって清浦内閣を支持したのである。
これによって政友会は倒閣運動における主導権を失った。

同年1月18日、三浦梧楼の斡旋によって三浦邸に集まった加藤高明・高橋是清・犬養毅らは互いに協力しあって護憲三派を結成し、「清浦内閣を倒して憲政の本義に則り、政党内閣制の確立を期すこと」で互いに合意した。

さらに加藤ら護憲三派は、関西で憲政擁護大会を開いて演説を行なうなどして国民からの支持を呼びかけるなど、盛んに運動する。
加えて貴族院では清浦がかつて所属していた研究会_(貴族院)の議員を閣僚10人中3人も入閣させるという「論功人事」を行ったことに対する他会派からの批判が湧き起こっていた。
このため、これら一連の動きなどから、1月31日清浦内閣は衆議院の任期満了を待たずに議会を解散して総選挙を行なうことで白黒をつけようとした。
これは本来の選挙管理内閣としてのあり方を逸脱して、研究会と政友本党の支持を背景に長期政権化を狙ったものとされて、世論の硬化を招いた。
このため、この解散は「懲罰解散」ないし「清浦クーデター」の名称で呼ばれるようになる。
さらに前年の関東大震災による選挙人名簿の損傷によって投票日が当初予定通りの5月10日に延期された。
その間に清浦内閣が護憲三派の選挙運動の妨害を図ったことから、国民各層の憤激を招いた。

そして5月10日に行なわれた第15回衆議院議員総選挙の結果、護憲三派からは286名(憲政会151名。政友会105名。革新倶楽部30名)らが当選する。
これに対して清浦内閣を支持していた政友本党は109名が当選したにとどまり、護憲三派の圧勝に終わった。
そして6月、遂に清浦内閣は倒れ、第一党の加藤高明に内閣組閣の大命が下った。
加藤は、政友会から2名、革新倶楽部から1名を加えた護憲三派内閣を組閣する。
ここに、高橋是清以来3代ぶりの政党内閣が復活したのである。

第二次憲政擁護運動の意義

第二次憲政擁護運動は、国民からの運動ではなく政党からの運動であり、その規模も第一次と較べるとあまりに小規模であった。
しかし天皇機関説を唱えた美濃部達吉は、「長い梅雨が明けて、かすかながらも日光を望むことができたような気持ち」と、この運動を高く評価している。

加藤内閣は陸軍4個師団の廃止や予算一億円の削減、有爵議員のうち、伯・子・男の数を150名に減らすなどの貴族院改革、幣原喜重郎の幣原外交によるソビエト連邦との国交樹立、普通選挙法の制定など、多くの改革が行なわれた。
このように加藤内閣のもとで国民のためになることも確かに多かった。

しかし治安維持法が同時に制定され、これは「悪法」として非難された。
尾崎行雄や徳川義親(松平慶永の子)らは最後まで治安維持法成立に反対したが、結局、治安維持法は成立してしまった。
この治安維持法はのちに戦前の悪法のひとつとされるようになるが、その悪法が護憲運動をもとに組閣された内閣のもとで成立したというのは、皮肉なものである。

[English Translation]