和歌 (Waka)

和歌(わか)は、上代から日本で行われた定型の歌。
和歌を詠む人のことを歌人という。

呼び名

和歌とは漢詩に対する呼称で、やまとうた(大和歌・倭歌)、あるいは単にうたという。
奈良時代には倭歌(わか)・倭詩(わし)とも言った。

和歌は広義には長歌・短歌・旋頭歌・片歌及び仏足石歌の総称だが、狭義には31音を定型とする短歌のことを指す。
そのため、三十一文字(みそひともじ)とも言われる。

また、日本神話ではスサノオが詠った「八雲立つ出雲八重垣妻ごめに八重垣作るその八重垣を」が最初の和歌とされることから、その初めの語句を取って八雲(やくも)ともいう。
「八雲の道」といえば「歌道」のことである。

「八雲の道」と同じく「歌道」を表す言葉に「敷島の道」がある。
敷島(しきしま)は大和あるいは日本を意味し、直訳すれば「日本の道」という意味になる。
歌を詠むことが日本古来の文化であったことを示している。

なお、沖縄県には琉歌というやや独特の形式がある。

和歌の定義

和歌は、五音と七音を標準とする大和ことばによる定型詩(し)、または詩(うた、音楽)である。
文学としての解釈と音楽としての解釈の二通りがあるが、一般的には国文学の中の1つとして解釈されるため、学校教育において「うた」の要素は排除されている。

和歌の歌体

片歌
五七七の三句。
二つに分かれて唱和する片方で、最短の歌。

旋頭歌
五七七、五七七の形式。
片歌を二回繰り返したもので、問答歌が多い。

長歌
五七、五七、…、五七、七の形式。
五七を三回以上繰り返し、最後を七音を加える。
万葉集に多く見えるが、古今集の時点ではすでに作られなくなっている。
主に公の場でうたわれるもので、反歌を伴う。

短歌
五七、五七、七の形式。
のちに五七五と七七に分ける形式が発生し、連歌、俳諧が発生する。

仏足石歌体
五七、五七、七七の形式。

今様
七五、七五、七五、七五の形式。
平安中期に発生。

甚句(都々逸)
七七、七五の形式。
江戸時代に発生。
全国各地の民謡に多い。
囃子言葉が挿入される場合も多い。
なお、都々逸という呼称は幕末以降にできたとも言われる。

和歌の修辞技巧

枕詞
序詞
掛詞
縁語
本歌取り
体言止め
対句
句切れ

和歌の披講

披講とは、和歌に節を付けて詠み上げることで、綾小路流や冷泉流などの流派が存在する。
現在では宮中の歌会始や神社での行事などで見ることができる。

上代歌謡

定型が完成する以前の和歌を上代歌謡という。
感情の高まりから発せられた叫び・掛け声が次第に成長して、祭りや労働の際に集団で歌われる歌となったものとも言われる。
多くは文字に記されることなく失われてしまったとされるが、『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』『古語拾遺』『琴歌譜』『仏足石歌碑』などに約300首残っている。
当時の習慣として、歌垣という集団行事があった。

上代歌謡は神楽歌や催馬楽などの楽器を伴う儀式歌の源流となるが、その歌体・技巧は後の和歌の母胎となっている。

記紀歌謡

『古事記』『日本書紀』に採られた上代歌謡を、特に記紀歌謡という。
独立した歌謡ではなく、物語の効果を高めるために用いられていることが多いが、宮廷人が歌った儀式の歌謡や、創作もあるとされている。
片歌・旋頭歌・短歌・長歌などの五音と七音を標準とする歌体に、対句・くりかえし・枕詞・序詞などの技法が用いられた。

他にも記紀の時代の歌謡には、奈良の薬師寺の仏足石歌碑に刻まれた歌、平安時代中期に書写された和琴の譜本『琴歌譜』がある。

万葉集

統一国家が確立してゆく中で、大陸から漢詩が入ってきた影響もあり、個人の気持ちを個々に表現する歌が盛んに作られるようになった。
それらを大成したのが『万葉集』である。
万葉集の注記によると、万葉集以前にも『古歌集』『柿本人麻呂歌集』『笠金村歌集』『高橋虫麻呂歌集』『田辺福麻呂歌集』『類聚歌林』などがあったとされるが、現存していない。
万葉集は長い期間を経て何人もの人々によってまとめられたが、最終的に現在の20巻のかたちに編集したのは大伴家持だと言われている。
約4500首が収められており、その最も古いものは仁徳天皇期のものであるが、大部分は飛鳥時代から奈良時代中期にかけての約百年弱のもので占められている。
現実的・写実的な歌風が多く、貴族の歌のほかに東歌・防人歌など民衆の歌もある。

国風文化

平安時代初期には漢詩文が公的な文学として和歌を圧倒した。
和歌は私的に交わされる贈答歌が主となり、宮廷で詠まれることは奈良時代と比較すると少なくなった。
しかし、平安時代中期になって、唐の衰退やそれに伴う遣唐使の廃止により中国の文化的影響力は減少し、国風文化の時代となった。
その過程で、仮名文字の発達とあいまって和歌は次第に公的な文化として復権し、歌合も行われるようになった。
『新撰万葉集』には漢詩(からうた)と和歌(やまとうた)が並べて書かれ、和歌が公的な文学としての地位を回復してゆく姿が見られる。
こうした中で最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が撰進された。
この頃から、和歌というと短歌形式のものをさすようになった。

三代集

延喜5年(905年)醍醐天皇の勅命によって、紀貫之・紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑の4人によって編纂されたのが『古今和歌集』である。
『万葉集』以後の歌約1000首を20巻に収めている。
理知的・観念的な歌風が特色である。
それから半世紀のちの村上天皇の頃に和歌所が置かれ、当時すでに読みにくくなっていた『万葉集』の訓読と『後撰和歌集』の撰進が梨壺の五人によって行われた。
貴族の贈答歌が中心で、物語化の傾向がある。
さらに半世紀後の一条天皇の頃に、『拾遺和歌集』が撰進された。
典雅で格調正しい『古今和歌集』の伝統を受け継ぐものになっている。

八代集

平安時代後期には摂関政治が衰退し始め、貴族文化に変化が訪れた。
そのころ撰進されたのが『後拾遺和歌集』である。
保守的な『後拾遺和歌集』に対し、次の『金葉和歌集』は清新な叙景歌が中心で革新的なものであったが、続く『詞花和歌集』は再び保守的なものになっている。

源平の争乱の後、後白河院の命で藤原俊成が『千載和歌集』を撰進した。
貴族社会の崩壊、武士の台頭という混乱の中で芸術至上的な傾向を示し、平安時代末期の和歌を一つの高みに導いた。
俊成の弟子が撰進したのが次に述べる『新古今和歌集』である。

中世

鎌倉時代に入ると、政権を奪われた貴族たちは伝統文化を心のより所にしたため、和歌は盛んに詠まれた。
鎌倉への対抗意識もあって和歌に非常な熱意を示した後鳥羽院の命で撰進されたのが『新古今和歌集』である。
現実の体験ではなく、頭の中で作り上げた世界を詠んだものがほとんどを占める。
千載和歌集でみられた芸術至上主義がさらに進み、技巧は極致に達した。
その一方で自然への愛や人生観を詠んだ西行、万葉調の源実朝も尊ばれた。

『新古今和歌集』編纂の中心人物だった藤原定家の死後は、その子の為家が歌壇の指導者だったが、為家が亡くなると、家系も歌壇も二条派・京極派・冷泉派の三派に分かれた。
三派は主導権をめぐって争い、うち二条派と京極派は次々と勅撰集を編纂した。

南北朝時代 (日本)ごろから、和歌は僧侶や武士を中心に詠まれるようになるが、地方武士にも普及する一方で、形式主義に流れた和歌は衰退していった。

近世

近世初期には伝統的な歌学が集大成され、多くの歌人が生まれたが、既に「歌道」として完成された芸術になっていたため新しい歌風は生まれなかった。
誕生まもない俳諧に比べて、上代からの伝統的日本文化である和歌の革新は抑制された。

近世後期になると京都から新しい和歌の動きが起こり、堂上の二条派から派生した地下人の桂園派が登場した。
桂園派は明治時代初期まで歌壇に重きをなした。

近代

明治時代初期の歌壇は、御歌所派や桂園派などの江戸期からの伝統的な文化人たちが担ってきたが、和歌改革を志す人々(正岡子規や与謝野鉄幹ら)によって題詠による作歌・風雅な趣向が批判され、新時代に相応しい新しい和歌が生まれた。
しかし、伝統的な和歌と区別するために、やがてこれらの新しい歌は「短歌」と呼称するのが普通となった(短歌の項も参照のこと)。

歌人

和歌をよむ人を歌人という。
うたびと、うたびと、とも。

歌人一覧を併せて参照の事。

歌聖(かせい)は和歌の名手に対する尊称。
単なる敬意を示すのみではなく、歌道において神としてあがめられる歌人を指しており、具体的には柿本人麻呂と山部赤人をいう。

歌集

和歌を集めて本にしたものを歌集という。

勅撰和歌集(勅撰集)
勅命・院宣を奉じて編纂した歌集。

私撰和歌集(私撰集)
個人、民間が撰定した歌集。
中でも藤原定家による小倉百人一首は大変よく親しまれており、日本人の和歌に対する見方に大きな影響を与えている。

私家集
個人の歌を集めた歌集。

和歌の西洋音楽による解釈

和歌は、節(ふし)を付けて詠うものとして始まったため、節にのっていれば文字数(音節数・モーラ数)の規定はややゆるい。
すなわち、節にのっていれば、五音・七音以外の音節数であっても実質的には「字余り・字足らず」ではない。
「字余り・字足らず」という考え方は、詠うことよりも、書き留めた際の定型詩としての美意識から生まれた言葉である。

西洋音楽による解釈では、和歌はテンポの遅い四分の四拍子で、2小節で1セットのリズムを作っている。
五音は1リズム(2小節)に5つの四分音符と3つの四分休符、七音は1リズムに7つの四分音符と1つの四分休符を基本形としているが、四分音符・休符の総数が1リズム(2小節)内に8つであればよい(九音の場合、音節数が9なら三連符が一部入る)。

歌体は、これらのリズムの組み合わせや数に依存する。
例えば、短歌は2小節1セットのリズムが5つで出来ており、全小節数は10となる。
「あきのたの かりほのいおの とまをあらみ わがころもでは つゆにぬれつつ」という短歌は、「五七六、七七」で字余りといわれるが、リズムごとに2小節ずつ区切ると、「あきのたが多用されたりする。

短歌を和歌の詠み方(リズム)から脱して西洋音楽化させた例として「君が代」があるが、この場合は上記のような短歌のリズムから脱し、西洋音楽として美しく聴こえるよう音節を長短させている。
一方、「荒城の月」は「七五、七五、…、七五」と繰り返される和歌であるが、和歌のリズムをあまり崩さずに西洋音楽に適合させた名曲である。

[English Translation]