因幡の白兎 (Inaba no Shiro Usagi (The hare of Inaba))

因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)は、出雲神話の一つ。
「稻羽之素菟」(『古事記』)のうち素菟(素兎)が正しい。
本居宣長は『古事記伝』で裸兎と記し、因幡の素兎はこの事を述べる時の名目であろうとしている。
素をシロと読むことから白兎との俗説が広まった。
素をシロと読む時は「素人」のように「ただの」の意で白ではない。
また、素足、素手の場合は裸を意味する。

「白い兎」の俗説により、甚だしい例では、ヨーロッパ原産のアルビノのアナウサギを描いた絵さえある。
野生のウサギの場合、ガマの開花期に白い冬毛になることはなく、浅瀬にサメかワニ(後述)がいるような土地では冬に白くなることさえない。

淤岐島(おきのしま)(所在不明)から因幡国に渡るため、兎が海の上に並んだ和邇(ワニ)の背を欺き渡った。
しかし、最後にワニに着物を剥ぎ取られた。
八十神(やそがみ)の教えに従って潮に浴し風に吹かれたために身の皮が裂けた。
苦しているのを大穴牟遲神(オオナムヂ、大国主神)が救うという話である。

説話

大国主には多くの兄弟(八十神)がいた。
大穴牟遲神が稲羽(因幡)のヤガミヒメを妻にしようと出掛けたとき、八十神は大穴牟遲神に荷物を全部持たせた。
気多(けた)の岬に着くと、裸の菟が伏せっていた。
八十神は、「お前は海水を浴び、高い山の上で風に当たって寝ていろ」と指示した。
菟がその通りにすると、海水が乾くにつれて身の皮が風に吹き裂かれた。

菟が痛みに苦しんで泣き伏せっていると、そこに遅れて大穴牟遲神がやって来た。
大穴牟遲神が何があったのかと問うと、菟はこう答えた。
「私は淤岐嶋にいて、こちらに渡ろうと思ったが渡る手段がないので、海の和邇(わに)に「お前と私とでどちらが仲間が多いか競争しよう。できるだけ仲間を集めて気多の岬まで一列に並びなさい。私がその上を走りながら数えて渡るから」と言った。和邇は言われた通りに一列に並び、私はその上を跳んで行って、地面に下りようとする時に「お前たちは騙されたんだよ」と言うと、和邇は私を捕えて着物を剥いでしまった。先程通りかかった八十神に言われた通りにしたら、すっかり傷だらけになってしまった」。

大穴牟遲神は菟に、河口へ行って真水で体を洗い、そこに生えているガマの花粉(蒲黄)を取ってその上で寝ると良いと教えた(蒲の花粉はホオウといい傷薬になる)。
菟が教えられた通りにすると、体は元通りに直った。
この菟は、後に菟神と呼ばれるようになった。

兎は大穴牟遲神に、「ヤガミヒメは八十神ではなくあなたを選ぶでしょう」と言った。
なお、この神話から、白兎を祭る白兎神社は、一般的な縁結びではなく、特定の人との縁結びの神様とされ、意中の人との結縁にご利益があるとされる。

もう一つの白兎伝承

古事記に記される因幡の素兎神話とはまったく異なる伝承が、山間の鳥取県八頭郡八頭町、かつての八上(やかみ)に残っている。

八頭町門尾(かどお)の青龍寺の城光寺縁起と八頭町土師百井(はじももい)の慈住寺記録に次のように記されている。
「天照大神が八上行幸の際、行宮にふさわしい地を探していたところ、一匹の白兎が現れた。」
「白兎は天照大神の御装束を銜(くわ)えて、霊石山頂付近の平地、現在の伊勢ヶ平(いせがなる)まで案内し、白兎はそこで姿を消した。」
「天照大神は行宮地の近くの御冠石(みこいわ)で国見をされ、そこに冠を置かれた。」
「その後、天照大神が氷ノ山(現赤倉山)の氷ノ越えを通って因幡を去られるとき、そこで樹氷の美しさに感動されてその山を日枝の山(ひえのやま)と命名された。」
氷ノ山麓の舂米(つくよね)集落にはその際天照大神が詠まれた御製が伝わっている。

この伝承に基づき、八頭町土師百井にはもと白兎神社、池田と福本にも白兎神社がある。
福本の白兎神社には大正時代の合祀以前には江戸期に築造された社殿がある。
正面には波に兎と菊の御紋の彫刻が施されている。
現在この社殿は同町門尾の青龍寺本堂の厨子として再利用されている。
また、氷ノ越えの峠にはかつて因幡堂があり、白兎を祀っていたそうである。

八頭郡の各所には波に兎の彫刻が数多く発見されている。
しかし、これも八上に伝わる白兎と天照大神伝承と大いに関連あるものと思われる。

八頭町に残る白兎神社は当初は夏至の日の出、冬至の日の入りを一直線に結ぶライン上に並んでいた模様である。
そのラインの南西の延長上に鳥取市河原町曳田の賣沼神社(祭神八上姫)、嶽古墳(八上姫の奥都城ではないか、とする説もある。)が位置している。
また、北東の延長線上に胞衣塚がある。
このような位置関係より、かつて復活、再生を意図した祭祀がなされていたであろうことがうかがえる。

解説

この説話は、『日本書紀』には記述がない。
『日本書紀』では本文でない一書にあるヤマタノオロチ退治の次が大国主の国づくりの話となっている。

陸上の動物が水中の動物を騙して水(ほとんどは川)を渡るという説話は、東南アジアやインドなどに分布している。
元々は大国主とは関係のない伝承を、大国主の話として『古事記』に取り込んだものと考える説もある。

兎が住んでいたという「淤岐嶋」は、隠岐島であるとする説と、特定はせず単なる「沖の島」のことであるとする説がある。
また、現在「白兎海岸」と呼ばれる浜の沖80mほどの所に、『古事記』の記述通りの「淤岐島」がある。
ただし、本来の伝承では、洪水によって増水した川などの短い距離であったと考える説もある。
白兎海岸の近くには、白兎神を祀る白兎神社がある。

鎌倉時代の辞書『塵袋』に残る記述では、兎は元々高草郡の竹林に住む老兎であった。
洪水に遭って島(オキノシマ)に流され、元の住み処に戻るために魚(ワニ)を騙したとされている。
白兎海岸に設置された白兎伝説の紹介パネルなど、いくつかの再話や民話集はこの記述に依っている。

サメ説

「和邇(わに)」は一般には「ワニザメ」のこととされるが、特に特定はせずサメやフカのことである。
「ワニザメ」は後に分類が進んだ結果としての和名で、獰猛なサメといった意味である。
旧因幡国(現在の鳥取県東部)を含む山陰地方の方言ではサメのことをワニと呼んでいる所がある(『日本国語大辞典』)。
この説話の絵本に本当のワニが描かれていることが稀にあるのはこのことを知らずに誤解した結果である。
言うまでもなく野生の爬虫類のワニは現在日本に生息していない。

ただし実吉達郎はその著書でイリエワニが漂着する可能性を指摘している。

ワニ説

次のような理由で和邇をワニとする説がある。

本居宣長によれば和名抄に「和邇は四足があり」「鰐のこと」「大鹿が川を渡る時引きずり込み」とある(古事記伝)。

サメをワニと呼ぶ地域は山陰の一部に限定され、他ではサメ・フカ等と呼ぶ。

ワニがサメの旧呼称で、山陰以外のすべての地域ではその呼称を捨てたとするのは不自然である。

鰐にはワニという訓がある。

水面に並んで浮くという行動は実際のワニの生態によく合う。
しかし、空気呼吸ができず(底生のもの以外)静止状態では窒息してしまうサメには無理である。

頭はともかく背鰭のあるサメの背をウサギが横に跳ぶ絵は描けない。

ワニが空中の餌を取る行動はよく観察されるが、静止状態からではサメには不可能である。

海の和邇との記述から川の和邇が存在が示唆される。
川にワニはいるが、サメはいない。

当の『古事記』に陸上の産屋の中で子を産む和邇の話がある。
なお、ワニのマングローブ林等での移動を考えると山幸彦と海幸彦において、大きな和邇ほど遅くなる理由も合理的に説明できる。

インドや東南アジアの説話では、爬虫類のワニの背をシカやサルがわたるというものがあり、その関連が研究者により指摘されている。
他にも東南アジアのイモ栽培に起源を有するとされる話が古事記にあり、東南アジアの話が伝来した事を裏付ける。

獅子や鯱と比べ、日本人はワニに対する正しい認識を維持し続けてきた。

医療の神

この説話及び『日本書紀』のスクナビコナ(少彦名)と共に病気の治療法を定めたとする記述などから、大国主は医療の神ともされている。
この説話と八十神の迫害説話は、古代の医術の一端を今に伝えるものと理解する向きもある。

「海水で洗え」という兄神の指示は一見悪意に満ちたものに思われるが、この行為は「塩水による消毒」を示唆しているとも言う。
ただし実際には、海水で洗っても消毒にはならず、また創傷を風に晒して乾燥させると皮膚の再生を阻害することになる。
兄神の指示は医療行為の一環どころか全くの逆効果である。

大国主の指示である「河口の真水で洗え」とは河口付近は汽水域であり生理食塩水に近いといえ、また蒲の穂は漢方で蒲黄として知られる止血効果があり、創傷治療に対して合理的といえる。

[English Translation]