壬生忠見 (MIBU no Tadami)

壬生忠見(みぶ の ただみ生没年不詳)は、平安時代中期の歌人。
父は壬生忠岑。
初めは名多、後に忠実、さらに忠見と改めた。
父とともに三十六歌仙の一人に数えられる。

954年(天暦8年)御厨子所定外膳部、958年(天徳 (日本)2年)摂津国大目(おおさかん)に任命されたことが知られる以外経歴については未詳。
歌人としては953年(天暦7年)10月の内裏菊合・960年(天徳4年)の内裏歌合等の作者となったり、屏風歌で活躍した。

『天徳内裏歌合』で
「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか」(『拾遺和歌集』恋一621・『百人一首』41番)

と詠み、平兼盛に敗れたために悶死したという『袋草紙』所収の説話は有名である。

が、家集には年老いた自らの境遇を詠んだ歌もあり信憑性には疑問が呈されている。

『後撰和歌集』以下の勅撰和歌集に入集。
家集に『忠見集』がある。

[English Translation]