川柳 (Senryu (satirical haiku))

川柳(せんりゅう)は、五・七・五の音を持つ日本語の詩の一つ。

特徴

口語が主体であり、季語や切れの制限もない。
字余りや句跨りの破調、自由律も見られる。
同じ音数律を持つ俳句とともに、俳諧すなわち俳諧連歌を源とする。
付け句からあらかじめ用意された七七を省略し、五七五として独立した。
江戸時代の前句師・柄井川柳が選んだ句の中から、呉陵軒可有が選出して『誹風柳多留』(はいふうやなぎだる)を刊行した。
それが盛んになったことから、「川柳」という名前で呼ばれるようになった。
同時代は、「うがち・おかしみ・かるみ」という3要素を主な特徴とし、人情の機微や心の動きを書いた句が多かった。
柄井川柳の死後も『誹風柳多留』は毎年刊行され、幕末(1838年、天保9年)まで167編を数えた。
18世紀末の寛政の改革では政治、博打、好色といった風俗を乱す句が『誹風柳多留』から削除されるなどの検閲がなされた。

川柳の歴史

初代川柳没後は、前句附興行から選句集「柳多留」への二重選考システムが失われた。
次第に句会としての形式を強め、選者もベテラン作者が任意に行なうようになり、「柳多留」も句会発表誌の役割になりさがった。
しかし、四世川柳の命名した「俳風狂句」時代は、文化文政期の江戸町人文化を背景に盛んとなった。
四世川柳の門人には、九州・平戸藩6万3千石の大名・松浦清(柳号・松山、流水、柳水)や葛飾北斎(柳号・卍)、都々逸の創始者・都々逸坊扇歌、「偐紫田舎源氏」の作者・柳亭種彦(柳号・木卯)など、当時一流の文化人が名を連ねている。
作品も狂句と命名されていても、内容的にはとても面白いものがある。
さらに天保狂句期には、その隆盛を極めた。

ところが、天保の改革に前後して、四世川柳は、公職の障りになるとして川柳号を辞めさせられた。

佃島の魚問屋・腥斎佃(水谷金蔵)に五世川柳を譲り、自らは「柳翁」となった。
天保の改革の風俗取締りは、当然、末番句を有する狂句界にも及び、取締りが厳しくなった。
五世川柳は、狂句の存続を内容的変化に求め、「柳風式法」や「句案十体」という狂句界の規範を作った。
内容も忠孝、仁義、報恩などの教化を主とするものにしてしまった。
これが、自由な表現を旨としていた川柳に規範という重い指針となった。
これを金科玉条とした以後の柳風狂句会の作者により、表面的な言葉遊びに堕落させてしまう原因となった。
これは、五世川柳が悪いというのではなく、時代の風波に晒された川柳風を守る行為であり、いたしかたない選択であったろう。
問題は、文明開化以後も、時代の風潮に変わらなかった明治柳風狂句の指導者たちの指導力のなさである。
これは、柳風会内だけの言葉遊び、皮相的な作風に陥いった。

1902年~1903年(明治35年~36年)になると阪井久良伎が現れて正岡子規の短歌、俳句改革の影響を受け、川柳改革の意識が高まる。
翌年には、井上剣花坊が新聞「日本」に〈新題柳樽〉欄を与えられ、これが大ヒット。
柳風狂句に代わる「新川柳」の勃興となった。
この2人を特に「川柳中興の祖」と呼ぶ。

以後、川柳は江戸からの客観的な視点の作風から、新傾向川柳によって作家の内面に向かう視点を獲得。
さらに新興川柳では、プロレタリアート思想と結びついたり、純詩的作風が生れたりして、川柳の表現分野は、人事面360度の幅広いものとなった。

戦中、戦後にかけて六大家と呼ばれる中興の祖の次の世代が現れた。

それは全国に新川柳の大きな波を起こし、多くの川柳家を生み出すこととなった。
その中核は、川上三太郎の「川柳研究」、村田周魚の「川柳きやり」、前田雀郎の「せんりう」、岸本水府の「番傘」、麻生路郎の「川柳雑誌」そしてやや小ぶりだが、椙元紋太の「ふあうすと」の6社である。
これは、川柳の多角化におおいに貢献し、女流作家が増大するとともに情念も川柳の表現の一部となった。

現在では、「俳句」が口語を取り入れ、川柳の詩的表現を求める者が文語に近づくなど、表現の表面上では俳句と川柳の差がほとんどなくなってきたという部分もある。
現在、川柳界は社団法人全日本川柳協会のもと、大会、句会を中心とする老人の娯楽的世界になりつつある。
新川柳が獲得してきた本来の、作者を表出する川柳作品は、ごく一部の川柳誌が追求しているのみである。
明治柳風狂句期の句会至上主義とどこか似てきている。

その点で、「サラリーマン川柳」からブームとなった一般公募による川柳は、投稿者も若年世代から老人まで幅広い。
一流の川柳家を選者とした公募川柳作品では、単なる「語呂合わせ川柳」と呼ばれる域を越えて、新しい表現分野になりつつある。
この場合、作者の個人名とは離れて、無名性の作品ともいえる作風であり、初代川柳期の無名性の川柳と似たものがある。
この背景にあるのは、「大衆」の〈共感〉が作品評価のベースになっていることであり、阪井久良伎が明治中興期に定義づけた「川柳は横の詩」ということに戻ったともいえる。

[English Translation]