柿本人麻呂 (KAKINOMOTO no Hitomaro)

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ、男性、660年頃~720年頃)は、飛鳥時代の歌人。
三十六歌仙の一人。
後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
また平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。

人物
柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。
人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(さる)とする説がある。
が、同時代史料には拠るべきものが何一つなく、一切は不明とみるほかない。

彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも書かれていないため定かではない。
『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。
一般には天武天皇の9年(680)には出仕していたとみられ(『万葉集』巻10・2033左注)、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。
ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌(『万葉集』巻2・217-219)を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もないではない(北山茂夫)。

賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされる。
この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。
複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。
近時は宮廷歌人であったと目されることが多い(伊藤博 (万葉学者)・橋本達雄など)。
が、宮廷歌人という職掌が飛鳥時代にあったわけではなく、結局は不明というほかない。
ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっている。
この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。
後世の俗書(『人丸秘密抄』など)では、持統の愛人であったとみるような曲解もあらわれてくるが、これはもとより小説である。

『万葉集』巻2に讃岐国で死人を嘆く歌(巻2・220-222)が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌(巻2・223-227)が残されている。
そのため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多い。
が、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解(伊藤博)や、後人の仮託であるとの見解も有力である。
また、文武4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁の死後も都にとどまっていたことは間違いない。
藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には亡くなったものと思われる。

彼は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。
その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。
また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。
長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。
また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。

人麻呂の歌は、讃歌と挽歌、そして恋歌に特徴がある。
賛歌・挽歌については、「大君は 神にしませば」「神ながら 神さびせすと」「高照らす 日の皇子」のような天皇即神の表現などをもって高らかに賛美、事績を表現する。
この天皇即神の表現については、記紀の歌謡などにもわずからながら例がないわけではないが、人麻呂の作に圧倒的に多い。
この歌人こそが第一人者である。
また人麻呂以降には急速に衰えていく表現である。
天武朝から持統朝という律令国家制定期におけるエネルギーの生み出した、時代に規制される表現であるといえる。

恋歌に関しては、複数の女性への長歌を残している。
かつては多くの妻妾を抱えていたものと思われていたが(たとえば斎藤茂吉)、近時は恋物語を詠んだもので、人麻呂の実体験を歌にしたものではないとの理解が大勢である。
ただし、人麻呂の恋歌的表現は共寝をはじめ非常に性的な表現が少なくない。
窪田空穂が人麻呂は夫婦生活というものを重視したひとであるとの旨を述べている(『万葉集評釈』)。
それは、歌の内容が事実・虚構であることの有無を別にして、人麻呂の表現のありかたをとらえたものである。

次の歌は枕詞、序詞を巧みに駆使しており、百人一首にも載せられている。
ただし、これに類似する歌は『万葉集』巻12・2802の異伝歌であり、人麻呂作との明証はない。
『拾遺和歌集』にもとられいるので、平安以降の人麻呂の多くの歌がそうであるように、人麻呂に擬せられた歌であろう。
足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿
あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む
夜になると谷を隔てて独り寂しく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように、長い長いこの夜を、私は独り寂しく寝るのだろう。

代表歌
天離(あまざか)る 鄙(ひな)の長道(ながぢ)を 恋ひ来れば 明石の門(と)より 大和島見ゆ
東(ひむがし)の 野にかげろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ
ま草刈る 荒野にはあれど 黄葉(もみぢば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し
近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

また、愛国百人一首には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」という天皇を称えた歌が採られている。

人麻呂の謎
上記の通り、人麻呂について史書に記載がなく、その生涯については謎とされていた。
古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれていた。
また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。

江戸時代、契沖、賀茂真淵らが、史料に基づき、以下の理由から人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたとされた。

以降現在に至るまで歴史学上の通説となっている。

五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載しなければならなかったが、人麻呂の名は正史に見られない。

律令には、三位以上は薨、四位と五位は卒、六位以下は死と表記することとなっている。
が、『万葉集』の人麻呂の死をめぐる歌の詞書には「死」と記されている。

その終焉の地も定かではない。
有力な説とされているのが、現在の島根県益田市(石見国)である。
地元では人麻呂の終焉の地としては既成事実としてとらえ、柿本神社としてその偉業を称えている。
しかし人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあったとされる、鴨島である。
「あった」とされるのは、現代にはその鴨島が存在していないからである。
そのため、後世から鴨島伝説として伝えられた。
鴨島があったとされる場所は、中世に地震(万寿地震)と津波があり水没したといわれる。
この水没については、1993年に調査され、科学的に認められたため、ほぼ史実であると明らかになった。
しかしこの史実と人麻呂の死地との関係性はいずれも伝承の中にある。
県内諸処の説も複雑に絡み合い、伝説の域を出るものではない。

また他にも同県邑智郡美郷町 (島根県)にある湯抱温泉鴨山の地という斎藤茂吉の説がある。
益田説を支持した梅原猛の著作の中で反論の的になっている。

人麻呂にまつわる異説・俗説
その通説に梅原猛は『水底の歌-柿本人麻呂論』において大胆な論考を行った。
人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ処刑したとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。
また、梅原は人麻呂と猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘する。
しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。
古代の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと。
また梅原がいうように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などになに一つ残されていない点などに問題があるからである。
なお、この梅原説を基にして、井沢元彦が著したものがデビュー作『猿丸幻視行』である。

続日本紀、元明天皇の和銅元年(708年)4月20日の項に柿本朝臣猨(エン、さる?)の死亡記事がある。
この柿本サルこそが、政争に巻き込まれ皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた人麻呂ではないかとする説もある。

しかし、当時、藤原宇合(うまかい)・高橋虫麻呂をはじめ、なまえに動物・虫などのを含んだ人物は幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは考え難いことはすでに指摘されている。
このため、井沢元彦は『逆説の日本史』(2)で、「サル」から人麻呂に「昇格」したと述べている。
しかし、「人」とあることが敬意を意味するという明証はなく、梅原論とおなじ問題点を抱えている。
柿本サルについては、ほぼ同時代を生きた人麻呂の同族であった、という以上のことはわからないというべきであろう。

[English Translation]