浦島太郎 (Urashima Taro)

浦島太郎(うらしまたろう)は、日本各地にある龍宮伝説の一つ。
また、日本の説話(おとぎばなし)の一つで、その主人公の名前でもある。

あらすじ

現在一般的に流通しているストーリーはおおむね以下のようなものである。

漁師の浦島太郎は、子どもがカメをいじめているところに遭遇する。
太郎が亀を助けると、亀は礼として太郎を竜宮城に連れて行く。
竜宮城では乙姫(一説には東海竜王の娘:竜)が太郎を歓待する。
しばらくして太郎が帰る意思を伝えると、乙姫は「決して開けてはならない」としつつ玉手箱を渡す。
太郎が亀に連れられ浜に帰ると、太郎が知っている人は誰もいない。
太郎が玉手箱を開けると、中から煙が発生し、煙を浴びた太郎は老人の姿に変化する。
浦島太郎が竜宮城で過ごした日々は数日だったが、地上では700年が経っていた。

なお、浦島太郎のその後については文献や地方によって諸説あり、定説と呼ぶべきものはない。

『日本書紀』による話

現存文献で浦島子の登場する最古の事例であり『日本書紀』「雄略天皇二477年条」で、蓬莱山へ行ったという発端部分だけが記載されている。
その内容は表現も構成も神仙思想を元に古代中国で流行した神仙伝奇小説に似ている。
この物語が不老不死への願望から生じた作品だったと考えられている。

『丹後国風土記』にある話

『丹後国風土記』(現在は逸文のみが残存)にある「筒川嶼子 水江浦嶼子」が原型とされる。
ほぼ同時代に書かれた『日本書紀』『万葉集』にも記述が見られるが、『丹後国風土記』逸文が内容的に一番詳しい。

万葉集巻九による話

『万葉集』巻九の高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)に「詠水江浦嶋子一首」として、浦島太郎の原型というべき以下の内容が歌われている。

「浦島太郎」という名前は中世から登場し、それ以前は水江浦嶼子を略して「浦島子」と呼ばれている。

『御伽草子』

「浦島太郎」として現在伝わる話の型が定まったのは、室町時代に成立した短編物語『御伽草子』による。
その後は良く知られた昔話として様々な媒体で流通することになる。
亀の恩返し(報恩)と言うモチーフを取るようになったのも『御伽草子』以降のことで、乙姫、竜宮城、玉手箱が登場するのも中世であり、『御伽草子』の出現は浦島物語にとって大きな変換点であった。

『御伽草子』では龍宮は海中ではなく、島か大陸にあるように書かれている。
春の庭、夏の庭、秋の庭、冬の庭の話はメインストーリーの付け足し程度に書かれている。

「鶴亀」バージョン

室町以降の『御伽草子』系の一部に浦島説話の変形版があり、以下のように結末を結ぶ。

一説に、ここから「亀は万年の齢を経、鶴は千代をや重ぬらん」と謡う能楽の「鶴亀」などに受け継がれ、さらに、鶴亀を縁起物とする習俗がひろがったとする。

横浜市神奈川区に伝わる話

昔、相模国三浦郡に浦島太夫とよばれる人がいた。
彼は仕事のため丹後国に赴任していた。
その息子太郎は、亀が浜辺で子ども達にいじめられているところに出会う。
(全国版と同じなので中略)老人になった太郎はある漁師から両親の墓が武蔵国白幡にあると聞いた。

この情報を聞いた太郎は急いで子安の浜に行った。
子安に着いた太郎は両親の墓を探したが、なかなか見つけられない。
それを見かねた乙姫は、マツに明かりを照らして場所を示した。
やっとのことで墓を見つけた太郎はその地に庵をつくり、太郎はそこに住んだ。
この寺は後に観福寿寺と呼ばれるようになった。

沖縄に伝わる話

本土のものと若干道具立てが異なる。

昔、南風原町与那覇村に正直者の漁師が居て、ある日与那原町の浜で髢(かもじ。髪の毛)を拾った。
探している娘を見つけて渡すと感謝され、竜宮に招待したいと言う。
漁師が娘と一緒に歩くと海が二つに割れて道が開け、竜宮に通じていた。
娘は乙姫と素性を明かし、漁師は竜宮で歓待の日々を過ごすこととなる。
三ヵ月ほど経つと漁師は故郷が恋しくなり、娘から紙包みを渡されるが「開けないように」と念を押される。
やがて漁師が郷里に帰り着くと辺りは変わり果て、人間でおよそ三十三代かかるほどの年月が経っていた。
漁師は開けるなと言われた紙包みを開いたが、中には髢が一束入っているのみ。
そして煙が沸き立ち、彼は白髪の老爺と化して倒れ死んだ。
地元の者が老爺に敬意を払い墓を建て祀ったのが、穏作根嶽(うさんにだき)であるという。

近代における改変

竜宮城に行ってからの浦島太郎の行状は、子どもに話すにはふさわしくない内容が含まれているので、童話においてはこの部分は改変されている。
これは、明治時代に国定教科書向きに書き換えられたためである。

歴史・解釈

『丹後国風土記』を基にして解釈すれば、主人公は風流な男である浦島子と神仙世界の美女である。
その二人の恋が官能的に描かれて異界(蓬莱山)と人間界との3年対300年という時間観念を鮮明に持つ。
その語り口は、古代にあっては非常に真新しい思想と表現であった。
神婚神話や海幸山幸神話などとはまったく異質であった。
結末が老や死ではなく肉体が地上から消え去るという神仙的な尸解譚になっているのもそのためである。

『丹後国風土記』逸文によれば、その記事は連(むらじ)の伊預部馬養(いよべのうまかい)という人物が書いた作品を本にしたものである。
この人物は7世紀後半の学者官僚で『律令』選定、史書編纂に係わり皇太子学士を勤め、『壊風藻』に神仙思想を基にした漢詩を残す当代一級の知識人であった。
『雄略記』や『丹後国風土記』、『万葉集』「巻九」などに見られる8世紀の浦島物語の原話は伊預部馬養によって描かれた神仙伝奇小説であった可能性が大きい。

平安時代になると浦島物語の舞台の丹後地方で、浦島明神という神社が浦島子を祀り人々の信仰を受けた。
中央の浦島物語と呼応する形で出てきたものと考えられる。

平安時代以降も漢文伝として書き継がれてきた。

10世紀初頭:『続浦島子伝記』

11世紀後半:「浦島子伝」(『本朝神仙伝』 所収)

11世紀末:「浦島子伝」(『扶桑略記』 所収)

13世紀初期:「浦島子伝」(『古事談』 所収) など。

12世紀以降になると、『俊頼髄脳』をはじめ『奥儀抄』、『和歌童蒙抄』など歌論書に浦島物語が登場し、仮名で書かれ宮廷や貴族達の間に浦島物語が広く浸透した。

中世になると、『御伽草子』の「浦島太郎」をはじめ絵巻・能・狂言の題材になり、読者・観客を得て大衆化していき、江戸時代に受け継がれた。
明治期には巌谷小波が前代の物語を恩返しに主眼を置いた子供向けの読み物に改作し、ダイジェスト版が明治43年から35年間、国定教科書の教材になり定着していった。

1300年もの長い歴史を持ち、各種の文献にさまざまな形で残された話は他に例がない。

謎と背景

浦島太郎がいた蓬莱山(竜宮城)とは仙人が住むという伝説の山であり、古代中国の不老不死を願う神仙思想が背景にあった。
海のかなたの東方に、仙人が住む孤島があり不老不死の薬があるという島である。

神仙思想は古代中国の陰陽五行説ともつながり、劇中登場する亀の色の五色も五行思想からきている。
その蓬莱山が後の時代に竜宮城へと変化していった。
またその内容から神仙思想を基にして古代日本の貴族が書いた官能小説ともとれる。

浦島太郎と似た説話に、ホデリ・山幸神話がある。
その劇中、天皇の祖神、山幸彦が「塩土老翁」(しおつつのおじ)という神に「無目籠」(まなしかたま)という水の入らないかごに乗せられ、海神の宮(わだつみのみや)に行き、海神(わだつみ)の娘、豊玉姫(とよたまひめ)と結婚し3年間暮らし生まれ故郷に戻り禁(タブー)を破る話の大筋がそっくりである。
また『歴史書』に著される山幸彦の孫の初代神武天皇がヤマトに向かう際、亀に乗り釣竿を持った男が水先案内人になる場合がある。
この2人の人物は不思議と浦島太郎に似ている。

浦島太郎のモデルとなったとされる人物として、『歌集』に「墨吉」(すみのえ)の人の記述があり、これは今も大阪の住吉にあり住吉三神に祭られている住吉三神の事である。
別名、「塩土老翁」といい大変長命長生きであったとされる。
そのモデルとされる武内宿禰も大変に長生きである(しかしながら人間の寿命をはるかに超越しているため多分にフィクションともとれる)。
浦島太郎、塩土老翁、武内宿禰、この3者は長生きで繋がる。

住吉明神から塩土老翁、「老翁」の字が老人になった浦島太郎にそっくりである。
住吉明神、塩土老翁、浦島太郎の3者は長寿、老人のイメージで繋がる。
また塩土老翁はヤマト王権の天孫降臨を導びき、神武天皇の東征をうながした謎の神であるとされる。
また武内宿禰は古代豪族、臣の祖とされ応神天皇の東征を導いたともされ、

浦島もどき:神武天皇の案内役

塩土老翁:神武東征を促し

武内宿禰:応神天皇の東征を導く。

この三者は不思議と同じイメージで繋がっていく。
神武東征と応神天皇の東征はルートも似ており神武と応神天皇も同一人物ではないかとの見方も見て取れる。

蘇我氏と浦島にも「海」という接点が見えてくる。
7世紀に全盛期を迎えた蘇我氏は、縄文時代から生産されてきた翡翠(硬玉)を独占的に生産していた。
ヒスイは海底からもたらされるため海神からもたらされる神宝と考えられた。
蘇我氏が海の神宝ヒスイにこだわった所に浦島太郎とのかすかな接点が見出せる。
それがゆえか浦島そっくりな山幸彦も劇中で海神からヒスイをもらっている。

蘇我氏の祖の武内宿禰は応神天皇の母、神功皇后の忠臣として活躍し神功皇后はトヨの海の神と強く結ばれ「豊浦宮」(とゆらのみや)に拠点を構えた。
それは「トヨの港の宮」とも呼ばれ、そこから神功皇后はトヨの女王と呼ばれた。
蘇我氏のルーツと神功皇后との係わり、神功皇后と武内宿禰の関係性が浦島太郎伝説から読み取れるともいえる。

歴史作家・関裕二の最近の研究によると古代文書のことごとくが浦島に饒舌なのはこの人物の背後に歴史の闇の存在が指摘できるからであるという。
『日本書紀』は太郎を5世紀後半の雄略天皇のころの話であるといい、300年後(この場合は300年)の8世紀に生まれ故郷に戻るとある。
この5世紀と8世紀の間が重要である。
この時代、雄略天皇が改革事業を推し進め「強い天皇家」を目指し蘇我氏が補佐役として政権を築くが、後に勃興した貴族に政権を奪われてしまう。
浦島太郎の300年とは、雄略天皇の改革と蹉跌の時代であるとも推測できる。

心理学的解題

心理学的には、浦島太郎の伝説は非常に日本的な風土を表していると分析される。
それによると、水底のヘビや竜は母親を象徴するものである。
西洋の説話では、竜退治囚われの姫を救出して結婚する、という筋書きになる(古代バビロニア神話の女神ティアマト、ギリシア神話のアンドロメダにまつわる物語を参照)。
これは象徴的な母親殺しであるという。
つまり、母親の影響を廃して男子は独立する、ということを意味するものである。
それに対して浦島太郎はその竜の住み処で姫と暮らしてしまう。
これは、男性が母親の影響を断ち切ることなく成人してしまう日本的なあり方を示しているというのである。

観福寿寺(神奈川県横浜市神奈川区)

- 明治に焼失。
また、乙姫が枝に光を照らしたマツも大正時代に枯死。
慶運寺に聖観世音菩薩像が現在も残る。

浦嶋神社(京都府与謝郡伊根町)

- 浦島伝説の中では最も古いとされる『丹後国風土記』逸文ゆかりの地域にある。
社伝では天長2年(825年)に創建。
丹後半島にはこのほかにも浦島伝説に基づく神社がある。

浦島神社(香川県三豊市)

- 荘内半島一帯には,太郎が生まれたという生里,箱から出た煙がかかった紫雲出山ほかたくさんの浦島伝説に基づく地名が点在している。
太郎が助けた亀が祀られている亀戎社もある。

寝覚の床・臨川寺(長野県上松町)

- 寝覚の床は竜宮城から戻った浦島太郎が玉手箱を開けた場所といわれ,中央の岩の上には浦島堂が建つ。
臨川寺は、浦島太郎が使っていたとされる釣竿を所蔵する。
境内からは景勝寝覚の床を見下ろす。

唱歌

文部省唱歌「浦島太郎」は、1900年の『幼年唱歌』に掲載された「うらしまたろう」(作詞・石原和三郎、作曲・田村虎蔵)と、1911年の『尋常小学唱歌』に掲載された「浦島太郎」(作詞・乙骨三郎、作曲者不明)とがある。
現在でも歌われている「昔々浦島は助けた亀に連れられて」で始まる歌は、『尋常小学唱歌』の「浦島太郎」である。

ウラシマ効果

物理学者アルベルト・アインシュタインの相対性理論によれば、運動している物体の経過時間は、静止している物体の経過時間に比べて相対的に遅くなる。
この現象は日常的には判らないが、光速に近づくと顕著になる(理論的には、光速に達すると時間は止まってしまうことになる)。
そのため、光速に近い速度の宇宙船に乗って宇宙旅行をして帰還すると、地上では宇宙船での何倍もの時間が経過しており、宇宙船の乗組員は、さながら浦島太郎の様相を呈することのなる。
そのため、この効果のことを俗にウラシマ効果と呼んでいる。
(物理学用語ではなく、ふつう「ウラシマ」と片仮名表記する)。

複数のSF作家(豊田有恒など)がこの話を浦島太郎が宇宙人に攫われ、亀(宇宙船)に乗って、竜宮城(異星)へ光速移動したために地球との時間の進み方にずれが生じたとする解釈を提示している。

詳細はウラシマ効果、双子のパラドックスを参照。

「浦島太郎(花子)状態」

竜宮城から故郷に戻るとまったく見知らぬ土地になっていたという浦島太郎の立場になぞらえ、長い間離れていた所に久しぶりに戻ると別世界になっており面食らうことを、古くは「今浦島」現在では「浦島太郎である」「浦島太郎状態にある」などと言う。
女性の場合は浦島花子(うらしまはなこ)。
「日本国外に住み日本の流行に疎くなったり違和感を覚えてしまう」「出向先から戻って本社の変貌ぶりにまごつく」「世間から離れていたために時事ニュースや新しい技術を知らず、時代に取り残されたと感じる」などの状態を自虐的に表現する際に用いる。

精神病院に長期間社会的入院を強いられていた患者が、退院した場合このような困難を経験することがあり、退院の際には入念なカウンセリングとトレーニングを受ける必要がある。
これは長期間服役して出所した受刑者にもありえることである。

[English Translation]