藤原実方 (FUJIWARA no Sanekata)

藤原 実方(ふじわら の さねかた、生年不詳 - 長徳4年12月12日 (旧暦)(999年1月7日))は、平安時代中期の公家・歌人。
藤原北家小一条流。
祖父は左大臣藤原師尹、父は侍従藤原定時。
母は源雅信の娘。
父定時は藤原忠平の孫にあたり、実方は忠平の曾孫にあたる。
子に藤原朝元がいる。

花山天皇・一条天皇両天皇に仕え、従四位上左中将に至った。
しかし、995年(長徳元年)に天皇の面前で藤原行成と歌について口論になり、怒った実方が行成の冠を奪って投げ捨てるという事件が発生する。
行成は取り乱さず、主殿司に冠を拾わせ事を荒立てなかった。
これが原因で天皇の怒りをかい、「歌枕を見てまいれ」と命じられ、実方は陸奥守に左遷され現地に下向。
行成は蔵人頭に抜擢された。
3年後、実方がその地で馬に乗り笠島道祖神前を通った時、馬が突然倒れ、下敷きになって没した(名取市愛島(めでしま)に墓がある)。
年齢は40歳ほどだったという。
その死後、賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出没すると言う噂が流れたことが枕草子に見える。
また、やはり死後にスズメへ転生して宮中の米を食い荒らしたとの伝説もある。

藤原公任・源重之・藤原道信などと親しかった。
風流才子としての説話が残り、清少納言と交際関係があったとも伝えられる。
他にも20人以上の女性との交際があったと言われ、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされることもある。

「拾遺和歌集」以下の勅撰和歌集に入集。
家集に「実方朝臣集」がある。

小倉百人一首
51番 かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを(「後拾遺和歌集」恋一612)

[English Translation]