虎御前 (Tora Gozen)

虎御前(とらごぜん、安元元年(1175年) - ?)は、富士の巻狩りの際に起こった曽我兄弟の仇討ちで有名な「曽我物語」のヒロインで曽我兄弟の兄・曾我祐成の恋人で、この物語を色づけ深みを持たせる役割をしている。
お虎さん、虎女(とらじょ)とも呼ばれる、また俳句などでは虎御前と書いて「とらごぜ」と読ませることもある。
十郎祐成と弟の曾我時致は早くから父の仇を討とうと考えていたので妻を持つことを考えなかったが、五郎の勧めもあり妻を持つことになった十郎は自分が死んだ後のことを考え遊女を選んだといわれる。
虎は大磯町の遊女であった、虎と十郎は遭うべくして出会い直ぐに恋に落ちる。
虎17歳、十郎20歳の時であった。
そして虎が19歳の年、建久4年(1193年)5月28日 (旧暦)に源頼朝が催した富士の裾野での狩りに夜陰に乗じて忍び込んだ兄弟は、父の仇の工藤祐経を討ち取る。
しかし、十郎はその場で新田忠常に切り殺され、五郎も生け捕りになった後頼朝直々に取り調べられて処刑される。

俳句の季語に「虎が雨(とらがあめ)」という言葉があるが、旧暦の5月28日に降る雨に後世の人びとが虎女の悲しみを重ねたものである。
兄弟が死んだ後、残された虎女は曽我の母のもとを訪ね兄弟を弔い出家する。

経歴
虎女の出自
虎女は「吾妻鏡」にも出てくることから実在した女性とされる。
虎女の出自については諸説あるが、重須本「曽我物語」では、虎女の母は平塚市の遊女夜叉王で父は都を逃れて相模国海老名郷にいた宮内判官家永だとされている。
虎女は平塚で生まれ大磯町の長者のもとで遊女になった。

虎の母夜叉王がいた平塚の遊女宿は現在の平塚市の黒部が丘あたりにあったと言われている。
大磯の長者は高麗山の近く(現在の平塚市山下)であるので余り離れた場所ではない、花水川が間にあるが歩いても一時間は掛からない距離関係である。

虎御前の名前

寅年の寅の日の寅の刻に生まれたので三寅御前と名づけたと「曽我物語」にあるが、実際は虎女は未(ひつじ)年の生まれである。
これは計算すれば直ぐに判ることである。
なぜ虎という名前をつけたかは本当のところはわからない。
虎が生まれた場所は近くにもろこしが原があり、その向こうには高麗山があるという異国の面影があった、唐(もろこし)とくれば枕詞は虎であるがその為かどうかも判らない。
虎御前の御前は当時遊女や白拍子などにつけて呼ぶ呼称である、静御前、巴御前などと同じである。
当時の呼び方として「ごぜん」ではなく短く「ごぜ」としたようで後の瞽女(ごぜ)に通ずる。

虎女の生涯
夫、十郎(当時は戸籍などないので、明確な婚姻の定義は無いが虎は十郎の妻としてその生涯を送った)の死後、兄弟の母を曽我の里に訪ねたあと箱根に登り箱根権現の別当の手により出家する。
その後亡夫の供養のため信州の善光寺に参る。
大磯町にもどった後高麗山の北側の山下に庵を結び菩薩地蔵を安置し夫の供養に明け暮れる日々を過ごした。
事が山下(現、平塚市)に現存する高麗寺の末寺であった荘巌寺に伝わる「荘巌寺虎御前縁起」に記されている。
虎女は兄弟の供養を片時も忘れることなく「曽我物語」の生成に深く関わりながらその小庵で63年と言われるその生涯を閉じる。
(虎女の生涯は嘉禄3年1227年2月13日 (旧暦)没、享年53と言われてきたが最近の研究でその没年は嘉禎4年西暦1238年とされる、ノートに注を付記)

遊女考(参考)
現代人は遊女というと江戸時代の零落した女性が行き着く暗くマイナスなイメージを強く持つが、室町時代以前の遊女はむしろ知識人であり歌舞などの技芸を厳しく長者と言われる元締めのような存在の女性から躾けられ、時には教養も身につけた女性たちで、神聖な存在として巫女の代わりをするようなこともあった。
遊女が自らの性で商売するだけの存在になったは戦国時代 (日本)以降のようである。

[English Translation]