西園寺公経 (SAIONJI Kintsune)

西園寺 公経(さいおんじ きんつね、承安 (日本)元年(1171年) - 寛元2年8月29日 (旧暦)(1244年10月2日))は、鎌倉時代の公家・歌人。
父は藤原実宗。
母は持明院基家の娘。
西園寺家の祖とされている。

源頼朝の妹の夫一条能保の娘全子を妻としていることから、鎌倉幕府と親しく、頼朝の子で3代将軍源実朝が暗殺された後、外孫にあたる藤原頼経を将軍後継者とした。
承久の乱の際には後鳥羽上皇によって幽閉されるが、事前に乱の情報を幕府に知らせ幕府の勝利に貢献した。
乱後は、幕府との結びつきを強め、1222年に太政大臣、翌1223年には従一位に昇進し、娘婿の九条道家とともに朝廷の実権を握った。
また、関東申次に就任して幕府と朝廷との間の調整にも力を尽くした。
道家の外孫である四条天皇がなくなると、公経の孫姞子を後嵯峨天皇の中宮とし久仁親王(後の後深草天皇)の外戚となった。
以後、西園寺家から中宮を出す慣例の先駆となるとともに、持明院統(後深草天皇の系譜)が幕府と近い関係を持つきっかけとなった。
晩年は政務や人事の方針を巡って道家と不仲になったが、道家の後に摂関となった近衛兼経と道家の娘を縁組し、さらに道家と不和であった道家次男の九条良実(公経が養育していた)をその後の摂関に据えるなど朝廷人事を思いのままに操った。
将軍・天皇・中宮・摂関の祖父となった稀有な人物でもある。
その死にのぞんで平経高は公経を「世の奸臣」と記している。

なお、西園寺の家名は公経が現在の鹿苑寺(金閣寺)の辺りに西園寺を建立したことによる。
公経の後、西園寺家は鎌倉時代を通じて関東申次となった。
四子があり、それぞれ西園寺家、清水谷家、洞院家、四辻家の祖となった。

[English Translation]