一条教房 (ICHIJO Norifusa)

一条教房(いちじょう のりふさ 応永30年(1423年) - 文明 (日本)12年10月5日 (旧暦)(1480年11月6日))は、室町時代後期の公卿(関白)、荘園領主。
一条兼良の長子。
母は中御門宣俊の女(小林寺殿)。
一条房家の父。

永享10年(1437年)元服。
長禄元年(1457年)左大臣。
長禄2年(1458年)関白となる。
寛正4年(1463年)に関白を辞す。
応仁の乱が勃発した際、弟の興福寺大乗院門主尋尊を頼って奈良に避難する。
さらに父兼良が奈良に避難してきたので、父に奈良の避難所を譲り、一条家領のあった土佐国幡多荘に下向する。
土佐国人に迎えられて生活の基盤を確保し、父の下向を誘ってみた。
兼良が帰京した後、土佐から邸宅を作るための木材を送ったりしている。
文明12年(1480年)10月5日薨去。
享年58。
号は妙華寺殿、法名宗恵。

[English Translation]