一色直氏 (ISSHIKI Naouji)

一色 直氏(いっしき なおうじ(又はただうじ))は、南北朝時代 (日本)の武将。
室町幕府の第2代九州探題である。
呼び名は一色孫太郎。
法名は入道道勝。

貞和2年/正平 (日本)元年(1346年)8月、九州に下向して父・範氏から九州探題職を譲られて探題となった。
その後は父と共に九州の経略に専念した。
しかし、九州探題としての勢力基盤は脆弱であった。
原因の一つに、同じ北朝 (日本)方である元鎮西奉行少弐氏とは不仲だった事があげられる。

後に観応の擾乱で足利直冬を擁した少弐頼尚の攻勢を受け、一時期劣勢に立たされた。
直氏はのちに足利直冬を追放させることに成功する。
しかし、1351年に足利尊氏が南朝 (日本)に降伏したり、北朝に征夷大将軍を解任されたりした。
そして、九州全土も混乱する事となる。

1352年に足利尊氏が北朝方へ復帰した後も、九州の大勢は徐々に南朝方に傾いていた。
直氏は文和2年/正平8年(1353年)、懐良親王を擁立する菊池武光率いる南朝軍に、筑前国針摺原の戦いで大敗を喫した。
以後は南朝方に対して対抗できる力も失い、文和4年/正平10年(1355年)に父と共に長門国に逃亡した。

このため北朝を立て直した足利尊氏の激怒を買い、翌、延文元年/正平11年(1356年)には再び九州に下向した。
しかし、またも菊池軍の前に筑前麻生山の戦いで大敗を喫し、直氏は筑前という基盤を失った。
直氏は延文3年/正平13年(1358年)に京都に逃亡している。
このため、足利尊氏は九州における南朝勢力の拡大を危惧して自ら親征しようとした。
しかし、1358年、遠征直前に病死した。
また、新たに九州探題として任命された細川繁氏も病死した。
まもなく少弐氏らが幕府に帰参し北朝方として新九州探題今川貞世の配下で活動するようになる。

京都に逃亡後の直氏の動向は不明である。
そして、弟の範光が当主として活動するようになる。
なお、のちに四職となった一色氏は弟の範光の系統の一族である。
その一方、直氏の系統の一族は鎌倉公方に仕えた幸手一色氏や尾張国の丹羽氏、甲斐国の金子氏などがある。

家族

子:一色氏兼(阿波守)

[English Translation]