三浦光村 (MIURA Mitsumura)

三浦 光村(みうら みつむら)は鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人。
三浦義村の4男。
三浦泰村の同母弟。

『吾妻鏡』に建保6年(1218年)9月14日から宝治元年(1247年)6月24日まで記載がある。

経歴

幼少時代は僧侶にすべく鶴岡八幡宮に預けられ、公暁の門弟となる。
後に実家である三浦氏に呼び戻され、貞応2年(1223年)には北条重時・結城朝広とともに新征夷大将軍・三寅(後の九条頼経)の近習に任じられる。
以後、20年に渡って頼経の側近として仕えた。
寛喜3年(1231年)に左衛門尉に任じられて検非違使を兼ねた。
以後嘉禎3年(1237年)に壱岐国国司、仁治2年(1241年)には能登国守となった。
寛元2年(1244年)に九条頼経が息子九条頼嗣に将軍職を譲ると、光村はこれを補佐する意図を以って鎌倉幕府評定衆の一人に加えられた。
光村は武芸に秀でると共に管弦に優れ、藤原孝時から伝授を受けた琵琶の名手であった。

3代執権北条泰時が死去すると、幕府は執権北条氏派と将軍派に分裂して対立を続けた。
寛元4年(1246年)に将軍九条頼経を擁する名越光時ら一部評定衆による5代執権北条時頼排除計画が発覚する(宮騒動)。
この計画には光村も加担していたが、時頼は北条氏と三浦氏の全面衝突を避けたいと言う思惑から、光村の問題は不問に付して平安京に護送される頼経の警護を命じた。
『吾妻鏡』によれば、光村は鎌倉に戻る際に頼経の前で涙を流し、「相構へて今一度鎌倉中に入れ奉らんと欲す」と語り、頼経の鎌倉復帰を誓ったという。
また、この時に頼経の父で朝廷の実力者である九条道家と通じたとする見方もある。
光村は道家を後ろ盾とした反北条・将軍派の勢力をまとめる急先鋒として、北条氏に危険視されていた。

翌宝治元年(1247年)6月、ついに鎌倉で三浦一族と北条氏一派との武力衝突が起こった。
光村は先頭に立って奮戦し、兄泰村に決起を促した。
泰村は最後まで戦う意志を示さず、総領泰村の決起がないまま三浦氏側は幕府軍に敗れ、源頼朝の法華堂に追いつめられる。
光村は兄の不甲斐なさを悔やみ、三浦家の滅亡と妻子との別れを嘆きながら、最後まで意地を見せ、判別できないように顔中を刀で切り刻んで一族と共に自害した(宝治合戦)。
残された光村の妻は鳥羽天皇の北面藤原能茂の娘で美貌で知られていた。
光村は殊に別れを惜しみ、最期の別れにお互いの小袖を交換している。
まだその余香が残る中での光村の死に、妻は悲嘆に暮れたという。
赤子がいた光村の妻は、他の三浦一族の妻子と共に出家して鎌倉を追われた。
三浦一族の墓は源頼朝法華堂東方の山腹にある。

経歴

寛喜3年(1231年)4月10日 - 蒙使、宣旨、左衛門尉。

天福 (日本)元年(1233年)4月25日 - 叙爵。

嘉禎2年(1236年)7月20日 - 従五位上。

嘉禎3年(1237年)正月29日 - 壱岐守。

仁治2年(1241年)7月20日 - 能登国。

寛元2年(1244年) - 鎌倉幕府評定衆、前能登守。

寛元3年(1245年)4月8日 - 正五位下。

宝治元年(1247年)6月5日 - 誅、享年43。

[English Translation]