上杉憲実 (UESUGI Norizane)

上杉 憲実(うえすぎ のりざね、応永17年(1410年)? - 文正元年2月6日 (旧暦)(1466年3月22日)?)は室町時代中期の武将。
父は山内上杉氏の生まれで越後上杉氏に入った越後国守護上杉房方で、3男。
妻は一色氏の娘。
子に上杉憲忠、上杉房顕、周清、法興、周泰ほか。
幼名を孔雀丸、四郎。
安房守。
関東管領を務め、足利学校や金沢文庫を再興した事で名高い人物である。

生涯

関東管領
越後に生まれる。
1416年の鎌倉での上杉禅秀の乱が収束し、翌1418年には、関東管領の上杉憲基(山内上杉氏)の養子となり鎌倉へ下る。
関東管領は室町幕府の出先機関の鎌倉府において、鎌倉公方を補佐する要職で、1419年に憲基が没したため10歳で関東管領に就任したとされており、翌1420年には就任が確認できる。
上野国、伊豆国の守護となる。
1423年には、反乱した常陸国の小栗氏征伐に出陣する。

1428年、4代将軍の征夷大将軍足利義持が没し、籤引きで足利義教が6代将軍に就任した。
憲実の主君の関東公方足利持氏は自らが将軍後継の候補に選ばれなかった事に不満を持ち、兵を率いて上洛しようとするが、憲実はこれを諫止する。
持氏が幕府の改元を無視すると、1431年には謝罪の使節を派遣するなど幕府との関係を憂慮し、翌1432年には鎌倉府が横領していた所領を幕府に返還し、同年に幕府で将軍義教の富士下向が協議されると、憲実は警戒して関東情勢の不穏を理由に下向の延期を促し、幕府の醍醐寺三宝院門跡満済らに進物するなど、憲実は一貫して鎌倉府と幕府との調停に努めている。
幕府は憲実を通じて鎌倉の動向を把握しようとしていた形跡が見られ、義教への対抗姿勢を続ける持氏と穏健派の憲実は確執が生じるようになっていたと考えられている。

永享の乱
1436年、幕府の分国である信濃国の守護小笠原政康と豪族の村上頼清が領地を巡って争い、持氏は鎌倉に支援を求めた村上氏を助けて出兵しようとするが、憲実は信濃は関東公方の管轄外であるとして諌め出兵を阻止し、合戦は小笠原氏が勝利する。
翌1437年に持氏の信濃再出兵が企画されると、出兵は憲実誅伐のためであるとする噂が流れ、憲実方にも武士が集まり緊迫状態が生じる。
持氏は憲実の元を訪れて会談するが、憲実は相模国藤沢へ下り、7月に嫡子を領国の上野に逃して鎌倉へ入る。
持氏は在職を望むものの憲実は管領職を辞任し、確執は解消されないままとなる。

1438年、6月に持氏の嫡子賢王丸(足利義久)が元服すると、憲実は慣例に従い将軍の一字拝領を賜るよう進言するが、持氏はこれを無視して「義久」と名乗らせている。
この頃には持氏が憲実を暗殺するという噂が立ち、憲実は義久の元服祝儀にも欠席している。
8月には鎌倉を出奔して領国の上野国平井城に下る。
持氏は憲実討伐のため8月に一色氏に旗を与えて派兵し、自らも出陣した。
幕府は関東での事態に対して、持氏討伐の兵を下す。
10月、憲実は武蔵国分倍河原に着陣し、先鋒の一色・小笠原軍を破る。
鎌倉軍は幕府軍に敗れ、持氏は出家して永安寺(鎌倉市)に入った。
憲実は持氏の助命と義久の関東公方就任を幕府に嘆願するが、義教はこれを許さず、憲実に持氏を殺すよう命じた。
1439年、憲実はやむなく永安寺を攻め、持氏と義久は自害した(永享の乱)。

出家・隠遁
乱後、憲実は後事を弟の上杉清方に託して、伊豆国清寺に退き出家し雲洞庵長棟高岩と称した。
1440年、結城氏が持氏の遺児を擁して挙兵する(結城合戦)。
幕府は憲実に政界復帰を命じ、憲実はやむなく出陣した。
その後、憲実は再び隠遁した。

1441年、嘉吉の乱で足利義教が暗殺される。
幕府は関東の秩序回復のため、憲実に関東管領復帰を命じるが憲実はこれを拒み、越後守護家を継いだ次男上杉房顕を除く子供たちも出家させる。
憲実は子たちに決して還俗せぬよう命じた。
1447年、持氏の遺児足利成氏が関東公方になると、憲実の長男上杉憲忠が還俗して関東管領に就任した。
憲実は憲忠を不忠の子であるとして義絶した。
憲実の危惧通り、憲実を親の仇だと考えていた成氏は1454年に憲忠を暗殺して、享徳の乱を引き起こしてしまう。

この後、憲実は諸国遍歴の旅に出て、京都、九州にまで赴いたとされる。
1452年(享徳元)には大内氏を頼って留まり、長門国大寧寺で死去、享年57。

人物
憲実は儒学に志篤く、1432年以降には足利学校の再興に関与し、五経など書籍の寄進を行うなど文化事業に大きな功績を残している。

幼い頃から聡明さは知られていたが、関東管領就任から数年は家宰の長尾景政が政務を代行していた。

関東管領という役職は、鎌倉公方の部下でありながら、任命権は京都の将軍が有するというものであった。
このことが、京都の幕府(義教)と、鎌倉府(持氏)の狭間で調停役となった憲実の立場を、一層難しいものにした。

儒学に志篤いが故に、主君である持氏を結果的にしろ裏切ったことを激しく後悔し、永享の乱後に自害を試みたとされている(『永享記』)。
その後も幕府による再三の復帰要請の拒否、諸国遍歴など、厭世的行動を見せている。

大寧寺で死去した際、当代屈指の画僧宗湛に「人皆その風を望み、敬せざる無し、忽ち逝去を聞き、感すべき慕うべきなり」(『蔭涼軒日録』)と評されており、彼の人望が厚かったことが現れている。

[English Translation]