上杉朝定 (UESUGI Tomosada)

上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)

南北朝時代の人物。
二橋上杉家(八条上杉家、扇谷上杉家の前身)当主。

戦国時代の人物。
扇谷上杉家当主。

戦国時代の人物。
山本寺上杉家当主。

上杉朝定(二橋上杉家)

上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)は、南北朝時代 (日本)の武将。

元享元年(1321年)、上杉重顕の子として生まれる。
父の重顕から家督を継いだ。
足利尊氏・足利直義兄弟に仕え、京において室町幕府の要職(丹後国守護・引付頭人等)にあった。
高師直とともに尊氏の執事を務めていたこともあるが、観応の擾乱が勃発すると直義方につき尊氏・師直と戦った。
ただし、同じ直義方であった一族の上杉重能・上杉憲顕とは関係が思わしくなかったらしい。
尊氏方への接近を疑わせる行動も取っている。
例えば、乱勃発後に尊氏の嫡男・足利義詮が朝定邸を訪問して会談する(観応元年7月28日『祇園執行日記』)など。
正平7年/観応3年(1352年)、信濃国において没した。
死因は病没とも戦死ともいわれはっきりしない。
享年32。

上杉朝定(山本寺上杉家)

上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)は、室町時代中期の武将。
越後国守護である上杉家の分家の一つ山本寺上杉家の祖とされる。
不動山城を築いたのは朝定とも、朝定の子とされる定種とも云われる。

山本寺上杉家の系譜ははっきり分かっておらず、戦国時代 (日本)に長尾氏に仕えた上杉定長や上杉孝長(景長)などとの続柄は不明である。

上杉朝定(扇谷上杉家)

上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)は、武蔵の戦国大名。
扇谷上杉家の事実上最後の当主である。

大永5年(1525年)、上杉朝興の子として生まれる。
天文6年(1537年)4月に父が死去したため、家督を継いで当主となる。
ところが若年の朝定が家督相続したのを好機と見た北条氏綱に7月には河越城を攻められ、朝定は敗走した。
以後は松山城 (武蔵国)を居城とした。
そして北条氏に対抗するため、武蔵国橘樹郡片倉・神大寺に城(神大寺城)を築いている。

天文10年(1541年)、長年抗争していた宿敵・山内上杉家の上杉憲政と和睦し、北条氏康に対抗する。
天文14年(1545年)には駿河国の今川義元と連携し、上杉憲政や古河公方の足利晴氏らと連合した8万の大軍で河越城を攻める。
河越城主北条綱成の善戦に遭うものの、落城寸前にまで追い込んだ。
しかし天文15年(1546年)4月20日、河越城の後詰にかけつけた氏康の奇襲に遭った。
河越城の戦い(いわゆる河越夜戦)で扇谷上杉軍は善戦するも当主朝定は討死、他の連合軍は四散し河越城奪還の夢は砕かれた。
享年22。

上杉朝定の死により、扇谷上杉家は断絶した。
一時、扇谷家庶流筋の上杉憲勝が上杉謙信の後援により再興をはかったが、まもなく後北条氏に屈服している。

[English Translation]