中原師元 (NAKAHARA no Moromoto)

中原 師元(なかはら の もろもと、天仁2年(1109年) - 承安 (日本)5年(1175年)5月20日 (旧暦))は平安時代後期の廷臣。
外記中原師遠の三男。
子息に師尚、平清貞(平清盛養子)、息女に藤原尹明室、二条天皇後宮(よし子内親王生母)、養子に中原祐安(清原頼業実弟)らがある。
明経博士、大外記。
また出羽国他の国司を歴任。

代々大外記を勤める家柄に生まれ、遅くとも天治2年(1125年)には自身もその職にあった。
以後、直講、助教などを兼任しながら同職を勤め、保元2年(1157年)に掃部頭に任じた際に一旦辞するが、永暦 (日本)元年(1160年)に再度任じ、永万2年(1166年)まで勤め上げた。

こうした大外記としての豊かな経験から先例に明るく、大治3年(1128年)に家司として招かれた摂関家において藤原忠実・藤原頼長父子より厚い信頼を受け、その相談事に数多く与った。
忠実との会話を師元が筆録した『中外抄』は、院政期の公家社会の様子を克明に伝える史料の一つとして名高い(同書の書名は中原の「中」と大外記の「外」から各々一字を取ったもの)。

保元元年(1156年)の保元の乱によって忠実が奈良の知足院に逼塞して後は、忠実の孫近衛基実の家司となり、大炊頭や出羽守を歴任し、位階は正四位上に至った。
『中外抄』以外の著作としては、日記『大外記中原師元記』、年中行事解説書『師元年中行事』、『雑外抄』などを残している。

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