中臣勝海 (NAKATOMI no Katsumi)

中臣 勝海(なかとみのかつみ、生年未詳 - 用明天皇2年(587年)4月)は、飛鳥時代の豪族。
姓は連。
中臣鎌子の子か。
大夫(まえつきみ:議政官)の地位にあった。

敏達天皇14年(585年)3月、物部守屋と共に、疫病流行の原因が蘇我氏の仏教信仰のせいであると奏上。
用明天皇2年(587年)4月、天皇が病床で仏教に帰依する旨を詔し、群臣にこのことを協議するように命じた際にも、守屋と共に詔に反対している。
その後、守屋の挙兵に呼応して、自宅に兵を集め、押坂彦人大兄皇子の像と竹田皇子の像を作り呪詛するが、反乱計画の不成功を知って彦人大兄に帰服。
皇子の宮に行ったが、宮門を出たところで迹見赤檮に殺された。

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