井上勝 (INOUE Masaru)

井上 勝(いのうえ まさる、1843年8月25日(天保14年8月1日 (旧暦)) - 1910年(明治43年)8月2日)は、江戸時代の武士(長州藩士)、明治時代の官僚。
位階勲等子爵。
通称を弥吉。
鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。
東京駅丸の内中央口の駅前広場に銅像がある。

概要

1843年、長州藩士・井上勝行の3男として萩城下に生まれる。
野村家の養嗣子となるが、のちに復籍する。
1863年(文久3年)に脱藩。
のちにイギリスに密航し、1868年(明治元年)までロンドンに留学し、ユニバーシティー・カレッジ・オブ・ロンドン(UCL)にて鉱山技術・鉄道技術などを学ぶ。
帰国後は新政府に出仕し、新橋駅(品川駅) - 横浜駅間の鉄道や東海道線、日本鉄道会社(東京~青森間)など、鉄道庁長官として鉄道事業の発展に尽力した。
鉄道事業はのちに、原敬や後藤新平に引き継がれる。

早くから鉄道国有化の必要を唱え、鉄道局長時代の1881年に工部卿佐々木高行に対し、民営鉄道の利益優先主義と競合は鉄道発展にマイナスとなるとする「私設鉄道に対する鉄道局長論旨」を提出する。
1891年(明治24年)、鉄道庁長官として「鉄道政略に関する議」を政府に提出する。
幹線鉄道を国有化すべきとする主張は、後の鉄道敷設法(1892年)を生み、鉄道国有法(1906年)につながる。
しかし鉄道敷設法では、多数の議員が鉄道各社の株主との理由もあってか法案成立に抵抗し、また、田口卯吉(両毛鉄道社長)は、民営鉄道こそが鉄道発展を促すとして井上と対立した。
その結果、鉄道敷設法は民営鉄道促進の余地を広げるものとして修正され、憤った井上は1893年に鉄道庁長官を退官した。

略歴

1843年、長州藩士・井上勝行の三男として萩に生まれる。

1863年、井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤博文と共に5人でイギリス留学。

1868年、帰朝。
(井上馨と伊藤は1864年に帰朝)

1869年~、造幣頭兼鉱山正を皮切りに、鉱山兼鉄道頭、鉄道頭、工部大輔、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任。

(1872年、新橋~横浜間に鉄道が開業)

(1874年、大阪~神戸間に鉄道が開業)

1878年8月、飯田俊徳を総監督とし、京都ー大津間の逢坂山トンネルを着工。
日本人のみの手によって施工された初のトンネルとなる。

1887年5月24日、造幣寮の創業・鉄道の発展に貢献した功績により子爵を授けられる。

(1889年、東海道線が全通)

1890年、鉄道庁長官、貴族院議員

1891年、小野義真、岩崎彌之助と共同で火山灰土の原野を開墾して小岩井農場(小岩井農牧株式会社)を創立。
小岩井の名称は、三者の姓の一番目の文字をつなげたもの。

(1892年、鉄道敷設法が公布され「鉄道会議」が設置される)

1893年、鉄道庁長官を退官。

1896年、汽車製造を大阪で設立

1906年4月1日、勲一等旭日大綬章を受章。
(鉄道が国有化される)

1909年、帝国鉄道協会の第3代会長に就任。

1910年、鉄道院顧問として視察中のロンドンにて客死。
享年68。
養嗣子井上勝純、襲爵。

1964年、品川東海寺大山墓地内にある墓所が鉄道記念物に指定される。

汽車製造合資会社

井上は退官後、汽車製造合資会社を大阪で設立。
この会社は以来、数々の機関車や客貨車を製造してきたが、1912年、汽車製造株式会社(通称 汽車会社)に名を変え、1972年、川崎重工業に吸収合併されて幕を閉じた。

萩市自然と歴史の展示館

JR山陰本線萩駅構内にある旧萩駅舎は、現在、萩市自然と歴史の展示館として再利用されている。
展示館には萩の紹介コーナーと鉄道コーナーがあり、鉄道資料とともに、井上に関する数々の資料が展示されている。

備考

イギリス留学の費用は、2004年現在の貨幣価値にして約5億円で、130日の航海後の4人は飢えたカラスのようだったと記録されている。

[English Translation]