井上角五郎 (INOUE Kakugoro)

井上 角五郎(いのうえ かくごろう、1860年11月30日(万延元年10月18日 (旧暦)) - 1938年9月23日)は、日本の実業家、政治家。
備後国深津郡野上村(現広島県福山市古野上町)出身。

生涯

6歳から寺子屋で手習いをはじめ、8歳から備後備後福山藩の儒学者山室汲古に漢字を習い始めるが学業優秀だったため山室の推薦により飛び級で福山藩校誠之館に特例入学。
入学後は漢学と数学を学び数学が特に優秀だったため準得業生(特待生)となる。

1873年、井上家の所有地内にその地区で初めて小学校が設けられたが、当時14歳の井上は村人に請われその学校の教師となっている。
17歳で広島県立尋常師範学校福山分校に入学。
19歳で卒業しいくつかの小学校に勤務したが、翌年同郷の先輩小林義直を頼り上京。
三月ほどして小林の薦めで福澤諭吉の書生となり学校法人慶應義塾に入学、23歳で卒業。

朝鮮の一般庶民の意識改革の為、識字率を上げる必要を感じていた福沢は、朝鮮政府に招聘された井上と、同じく招聘された同門の牛場卓蔵、高橋正信に「朝鮮の独立と朝鮮人の啓蒙の為には、朝鮮語による新聞の発行が不可欠」と訓示した。
牛場と高橋は厳しい情勢に見切りをつけて帰国したが、井上だけは朝鮮に留まり、やがて外衙門顧問(外交顧問)に就任。
1883年朴泳孝ら開化派が発行した「漢城旬報」に井上は翻訳、編集指導として関わった。
「漢城旬報」は朝鮮における最初の近代的新聞で文章は当初は純漢文だった。

1884年12月に朝鮮で起こった甲申政変は、韓国併合の契機となったといわれるが、この事件に井上は深く関与し金玉均・朴泳孝らと共に日本に逃れたとされる。
しかし、甲申政変の批判記事を載せたところ、李鴻章から朝鮮政府に対する抗議があり、井上はその責任をとって外交顧問を辞任。
漢城旬報も廃刊となってしまう。
甲申政変によって一時停止されていた「漢城旬報」(10日に一回発行)は、1886年「漢城周報」(週に一回発行)として発行され、井上も再び編集指導として採用された。
この「漢城周報」では、新聞としては初めて漢字とハングルの混交文が使用された。
これは井上が日本で鋳造したハングル活字を使って印刷したものである。
文体の創案者は老儒学者の姜ウィともいわれる。
同年末、井上が帰国した後も新聞の発行は続いた。
「漢城周報」の発行部数は約3000部。
読者は主に役人でこの新聞自体は庶民には浸透しなかったが、朝鮮におけるハングル使用の中の一つの重要なエピソードとされている。

1885年1月に帰国した直後、甲申政変に関係した廉で捕らえられ、伊藤博文、井上馨両元老院議官を侮辱したと官吏侮辱罪で有罪判決を受ける。
翌年1月に服役、2月恩赦で出獄。

1887年6月には、福沢にアメリカ合衆国移住を勧められ、30数名の広島県人者を連れて渡米。
この頃アメリカ本土への移民は、まだ学生が主で労働目的の移民は多くなかった。
井上はカリフォルニア州で農業を営み「時事新報」に体験を寄稿。
これを読み移民を志した者も少なくないと言われる。

1888年アメリカから帰国後、慶應義塾在学時代から知遇を得ていた後藤象二郎の大同団結運動に参加。
1890年、第1回衆議院議員総選挙に出馬して補欠当選。
第一議会では予算問題で政府を支持し自由党 (明治)を除名させられる。
1892年、吏党系の中央交渉部に籍を移して、更に北海道炭鉱鉄道の重役となる。
外資導入などを積極的に行い“実業界議員”として名を馳せると、これを良しとしない壮士(政治活動家)の、いの一番の標的となり、たびたび狙われ暴行を浴びた。
1891年には、井上に暴行を加えた者達が、保安条例に基づき帝国議会会期中の退去を命ぜられた。
用心のため仕込杖を持ち歩き、翌年1892年には、自由党の壮士と名乗る者に襲われ大立ち回りを演じた。
この年の『東京日日新聞』に「民党壮士が目指すものは独り井上に止まらず、温派議員の錚々たる者には総て乱暴を仕掛くべしとの模様も見ゆれば、今程は何れにても如何なる騒動の起り居るならんも知らずと云々」と過激な壮士の発言が掲載された。
その後、国民協会_(日本)には参加せずに独自の会派を結成するも、後には鉄道国有政策で意見の一致する憲政党に入党。
引き続き政友会にも所属したが、財政方針で対立し1901年、政友会を除名された。
酷い痘痕面で、“蟹甲将軍”というあだ名を付けられる。
この頃の新聞などに、蟹の顔をした井上の漫画がよく書かれたり、天然痘が流行した頃、家の入口に「井上角五郎様御宿」と書いた紙を貼れば、天然痘除けになるという噂が広るなどこの時代の名物男であった。
1924年まで連続当選13回、第1回から第47回までの帝国議会に参加した。

さらに実業家として多岐に渡る業績を残している。
京釜鉄道、南満州鉄道設立に関わった他、北海道炭鉱鉄道(のち北海道炭礦汽船)専務(実質社長)として鉄道業務機構の改組、新炭鉱の開発、付帯事業の拡張を推し進めた。
大規模コークス工場や輪西製鉄(のち新日本製鐵室蘭製鐵所)の設立などで鉄道輸送力を強化。
手宮線、空知線、室蘭線、夕張線などの改良を行った。
また1907年、日本初の外資(イギリス資本)導入といわれる日本製鋼所を設立、北海道の炭礦鉄道事業に多大な業績を残した。
1916年には経営不振に陥った京都電気鉄道社長に就任しこれを再建。
1918年に京都市に引渡し京都市電統一問題を解決した。
1920年には矢作水力(のち中部電力)、1923年には名古屋火力発電所を設立・起工するなど多くの炭鉱や発電所、鉄道の開発・整備に辣腕を振るった。
五男・井上五郎は中部電力初代社長を務め井川ダム建設等で知られる。
また福澤桃介は北炭専務時代の部下・参謀である。
その他日本で最初にブリキの大量製出に成功したり、北海道人造肥料社長、日本ペイント会長、歌舞伎座共同代表、品川銀行、千代田生命保険相互の創立で取締役、日本瓦斯取締役、日本人造絹糸(のち帝人)監査役、など多くの会社、銀行、等の経営者・役員を務めた。
また、東京商工会議所副会頭、帝国鐵道協会副会長などの要職を歴任。
1909年に「國民新聞」が“手腕ある実業家は誰か”として一般投票を行ったところ最高位に選ばれた。
“蟹甲将軍”という揶揄の他に“井の角さん”と親しみを込められて呼ばれたこともあった。
また教育界においても大きな足跡を残した。
国民工業学院理事長として、その創立、経営に努め、工業道徳の振興に力をそそいだ。

自著

漢城廼残夢(1892年)
故紙羊存(1907年 - 1911年)
福沢先生の朝鮮御経営と朝鮮現代の文化について(1934年)

[English Translation]