伊達邦直 (DATE Kuninao)

伊達 邦直(だて くになお、天保5年9月12日 (旧暦)(1835年11月2日) - 明治24年(1891年)1月12日)は、江戸時代末期の仙台藩一門・岩出山伊達家当主で、明治維新後は北海道開拓に身を投じ当別町の基礎を築く。
その功により正五位を贈られ、当別神社・北海道開拓神社に祀られる。
また、孫の伊達正人は邦直の功により男爵を授けられる。
亘理伊達家十五代で有珠郡伊達村(現・伊達市 (北海道))開拓に功があり男爵となった伊達邦成は実弟にあたる。

経歴
邦直は、伊達義監・りんの長男として陸奥国(のち陸前国)玉造郡岩出山城に生まれる。
幼名を太刀、通称を英橘という。

明治維新の際に奥羽越列藩同盟に参加した宗藩の命により、官軍と交戦した。
山形で勝ち戦功を上げたが、味方の多くは官軍に下った為戦に敗れる。

戦後、それまで一万四千石あった禄高を六十五石に減封され、城は召し上げられ家臣の士分を剥奪された。
侍ではなくなった家臣達は帰農を命ぜられたが、邦直は彼等が路頭に迷う事を憂い、私財を処分し得た資金で新政府の推し進めていた北海道開拓を志願する。
願は許され1869年(明治2年)石狩国空知郡の支配を命ぜられた。
しかし、この空知郡は内陸部に位置し物資の輸送等が困難であったことから海岸近くへの移転を申し入れた。
叶わず再度家老の吾妻謙が太政官に申し入れたところ、今度は不届きを理由に吾妻が自宅謹慎を命ぜられる始末であった。

その年の12月、邦直は家臣に命じ現地を調査させ、その結果を元に翌年自ら北海道に渡り調査を行った。
政府から指定された入植地は極めて大雑把な指定であって具体的に何処を開拓するかは現地機関である開拓使との交渉が必要だった。
空知郡では開拓の見込みが立たないことから、交渉の末厚田郡繋富(シップ・石狩市厚田区聚富)の荷揚場を借用する事が認められた。

岩出山で希望者を募り1871年(明治4年)3月2日に北海道へ向けて出発。
移住者は約180人。
しかし、繋富は土質が悪く砂地が多いため作物は育たなかった。
船で運んだ食糧等も着かなかったため、一同は困窮を極め開拓使に嘆願したところ、同地を視察に訪れた開拓使長官東久世通禧より開拓地を移ることを許される。
吾妻謙等に代替地の調査を命じたところ、当別が適しているとの結論に至り、開拓使より許可を得る。
当別への移転は1872年(明治5年)を予定し、邦直は岩出山に戻り再度移住者を募った。
第2回の移住者は182人で第一陣と合流し当別の開拓に当たった。
1879年(明治12年)の第3回移住者は250人に及び、これも邦直が募集に当たった。
また、この年当別では新たに戸長を設ける事となり元家老の吾妻謙が就任する。

開拓使当別詰所設置に伴い邦直は同年7月に開拓七等属・開拓使勧業課当別在勤を命ぜられる。
1881年(明治14年)2月26日准陸軍少尉に任命され、3月には開拓七等属兼務となり従六位に叙せられる。
1882年(明治15年)には所属が陸軍省となり、1885年(明治18年)5月陸軍屯田兵少尉になる。
以後も各開墾地の見分を行うが、1891年(明治24年)1月逝去する。
子の基理も同年5月逝去。

翌年8月旧臣等が内務省に阿蘇神社(後の当別神社)創建を願い出て、邦直が祀られる事となる。
同年10月には孫の正人が邦直の北海道開拓に掛る功績により男爵を授けられ華族に列せられた。
1915年(大正4年)11月には邦直に正五位が追贈される。
1940年(昭和15年)、皇紀2600年を記念し北海道開拓神社に合祀される。

[English Translation]