住友政友 (SUMITOMO Masatomo)

住友 政友(すみとも まさとも、天正13年11月11日 (旧暦)(1585年12月31日) - 慶安5年(1652年))は、江戸時代の商人。
住友家の初代。
住友政行の子。
住友では、商家・住友家を興したこの政友を家祖、南蛮吹きといわれる銅精練の技術を開発した蘇我理右衛門を業祖としている。

家祖・政友
家祖である住友小次郎政友は、越前国丸岡で生まれ、12歳の時、僧籍に入った。
もともと政友の父は柴田勝家の家臣だったが、主君勝家が豊臣秀吉との戦いに敗れて、越前北ノ庄城で自刃したため、政友の父も浪人の身となった。
そして、隠栖した父と別れて母や姉共に当時涅槃宗という新宗派が京都で誕生、政友はその宗祖空源上人の教えを受けて入門得度した。
仏門に入った政友は宗祖を助けて高弟の1人となった。
ところが徳川幕府の宗門干渉によって、涅槃宗は弾圧を受け、この法難のため文殊院空禅(政友の法名)は、千葉の佐倉市へ流された。
そして数年が経過し、その間に上人が入寂したので、政友は京へ戻されたが、宗派はすでに天台宗の一派に組み入れられてしまって壊滅状態だった。
今さら天台宗に宗旨改えはできないと考えた政友は、寛永年間に「富士屋嘉休」と名を変え、京都で薬舗・書林の店「富士屋」を開業し一市井人に転身した。
といっても有髪の僧のようなもので、子孫を戒めて、浮利を追わず、何事の粗略にせず、心をこめて慎重に商売をせよと言い残している。
政友は、この商人の心得を説いた『文殊院旨意書(もんじゅいんしいがき)』を残し、その教えが住友の家訓となって現在も「住友精神」として受け継がれている。
明治15年に全編十九款一九六カ条から成る『住友家法』が制定されたが、第1款家憲の第3条に次ぎの条文が掲げられている。

『我営業ハ確実ヲ旨トシ、時勢ノ変遷、理財ノ得失ヲ計リテ之を興廃シ、苟クモ 浮利ニ趨リ、軽進ス可ラザル事』

[English Translation]