元親夫人 (Motochika fujin (wife of Motochika))

元親夫人(もとちかふじん、生年不詳 - 天正11年7月22日(1583年))は、戦国時代 (日本)の女性。
土佐国の戦国大名である長宗我部元親の正室。
名は不明。
司馬遼太郎の夏草の賦では「菜々」という名で出ていた。
父は石谷光政、母は蜷川親順の娘。
美濃斎藤氏の石谷頼辰と斎藤利三の父違いの妹である。

生涯

1563年、元親25歳の時に土佐へ輿入れする。
輿入れの際には元親が京都へ上洛したと言われている(山科言継の「言継卿記」に、石谷頼辰の紹介で長宗我部氏が上洛と記載有り)。
その後長宗我部信親・香川親和・津野親忠・長宗我部盛親・一条内政正室・吉良親実正室・佐竹親直正室・吉松十左衛門正室を産む。

本能寺の変後、長宗我部元親による四国統一を目前とした中で他界した。
墓所は不明。

元親夫人と中央政権とのつながり

夏草の賦では織田信長の家臣、明智光秀を通じて斎藤利三の美貌の妹、菜々を娶ったと書かれているがこれは誤りである。
輿入れした1563年はまだ美濃国は斎藤龍興の領地であり、光秀は浪人として他国を放浪していた。
その後1575年、四万十川の戦いで土佐を統一した元親は信長の重臣となった光秀を通じて、嫡男の弥三郎(後の信親)の烏帽子親として信の一字と、四国の切り取り自由の許可を貰った。

だがその後、信長は石山本願寺・武田勝頼と強敵を滅ぼした。
敵が毛利輝元・上杉景勝などに絞られると、四国切り取り自由の約定を反故とし、土佐一国と阿波二郡を安堵するので兵を引くように命じた。
これを元親が突っぱねると、信長は三男織田信孝を総大将とし、四国征伐の遠征軍を向かわせようとした。
ところが明智光秀の本能寺の変が起こり危機を脱した。

これは斎藤利三が妹の危機を救うために光秀に直訴したことが本能寺の変の原因になったとする説がある。

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