八田宗綱 (HATTA Munetsuna)

八田 宗綱(はった むねつな、応徳3年(1086年) - 応保2年(1162年)8月20日 (旧暦))は平安時代後期の人物。
父は藤原宗円、母は益子正隆の女。
子に宇都宮朝綱、八田知家(異説あり)、小山政光の妻(寒河尼)。
妻は平棟幹の女(一説に八田局)。
結城朝光は孫。

八田権守(はったごんのかみ)を称した。
宇都宮宗綱、中原宗綱とも呼ばれ、宇都宮氏第二代当主。
父である宗円と同様、詳細な血縁関係は不明な部分も多い。
一説に、宗綱は八田(常陸国、現在の茨城県下館市八田)を政治基盤としていたといわれる。
これは、宗綱自身が八田を称していたことはもとより、諸氏系図で父・宗円が益子の豪族である益子正隆の娘を室としていることや、宗綱自身が常陸国大掾の平棟幹(大掾棟幹)の娘を室としていること、小田氏始祖となる次男の知家も八田を号されていること、嫡男の朝綱の母が八田局と号されていることなどが背景にある。
この場合、宗円と宗綱は八田の政治基盤を背景に、真岡市の芳賀氏を傘下に加えながら鬼怒川沿いに宇都宮に入り、宇都宮氏の基盤を整えたとされる。

応保2年(1162年)8月20日、77歳で没する。

娘の一人は小山氏に嫁ぎ、のちに源頼朝の乳母となった寒河尼で、結城氏の祖となる朝光を生んでいる。

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