六角義賢 (ROKKAKU Yoshitaka)

六角 義賢/六角 承禎(ろっかく よしかた/ろっかく しょうてい)は、戦国時代 (日本)から安土桃山時代にかけての武将。
南近江国の守護大名・戦国大名。
観音寺城主。

家督相続

大永元年(1521年)、六角定頼の子として生まれる。
父・定頼の晩年から共同統治を行ない、父と共に姉婿に当たる細川晴元を援助して三好長慶と戦った(江口の戦い)。
天文 (日本)21年(1552年)、父の死去により家督を継いで六角家の当主となる。

相次ぐ敗戦

父の死後も、第13代将軍・足利義輝や細川晴元を助けて三好長慶と戦うが、優勢であった三好家との勢力差が逆転し、敗戦し続けた。
しかし永禄元年(1558年)、足利義輝と三好長慶の和睦を仲介することで義輝を京都に戻し、面目を保っている。

しかしこれを契機に、父の時代に従属していた北近江の浅井久政が六角領に対して侵攻を開始する。
しかし義賢はこれを撃退し、なおも浅井氏を従属下に置いた。

永禄2年(1559年)に嫡男の義治に家督を譲って隠居し、剃髪して承禎と号した。

永禄3年(1560年)、浅井久政の嫡男・浅井長政が六角家に対して反抗を開始する。
義賢はこれを討伐するために大軍を自ら率いたが、長政率いる浅井軍の前に大敗を喫した(野良田の戦い)。
この敗戦により、それまで敵視していたと言われる斎藤義龍とも同盟関係を結び、対浅井氏の戦を繰り広げていくが、戦況は芳しくはなかった。

衰退から滅亡へ

永禄6年(1563年)、当主の義治が、最有力の重臣で人望もあった後藤賢豊を観音寺城内で惨殺するという事件が起こった(観音寺騒動)。
これにより、家臣の多くが六角家に対して不信感を爆発させ、義賢も義治と共に観音寺城から追われるまでに至った。
重臣の蒲生定秀、蒲生賢秀の仲介で義賢父子は観音寺城に戻ることができた。

永禄9年(1566年)には浅井長政が六角領に対して侵攻を開始するが、もはやそれを食い止めるだけで精一杯だった。
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始すると、信長の援軍要請を拒絶して織田軍と戦った。
しかし大敗を喫し、観音寺城から逃亡して甲賀に去った。
こうして、戦国大名としての六角家は滅亡する。

その後

やがて上洛した信長と義昭が対立し、義昭によって信長包囲網が形成されると、義賢は義治と共に仇敵であった浅井長政や三好氏らと手を結び、旧臣をかき集めてゲリラ的に南近江で織田軍と戦った。
元亀元年(1570年)には南近江の長光寺城に立て籠もる信長の重臣・柴田勝家と戦ったが、敗れてしまう。
その後、菩提寺城に立て籠もったが敗れ、信長に降伏した。

信長の命令により、佐久間信盛にその身柄を預けられ、石部城に監禁された。
しかし天正2年(1574年)に信楽に逃亡する。

その後も甲賀や伊賀の国人を糾合して信長に抗戦したとも、隠棲していたとも、石山本願寺の扶助を受けていたとも、天正9年(1581年)にキリシタンの洗礼を受けたとも言われるが、はっきりしていない。
天下の実権を掌握した豊臣秀吉が死去した慶長3年(1598年)に義賢も死去している。
享年78。

人物

義賢は弓馬の名手で、弓術は家臣の吉田重政に日置流(吉田流)を学び、唯授一人の印可を受けた腕前であった(経緯については日置流参照)。
馬術も大坪流を学び、佐々木流を興してその名を残している。

[English Translation]