前田利益 (MAEDA Toshimasu)

戦国時代の武将であり、慶次郎などの通称を持つ前田利久の養子。
この項で記す

大聖寺藩藩主前田利鬯の前名

前田 利益(まえだ とします、天文 (元号)12年(1533年?1543年?) - 慶長17年(1612年)?)は、戦国時代 (日本)末期から江戸時代初期にかけての武将で、前田利家の義理の甥。
武勇に優れ、古今典籍にも通じた文武両道の将だったが、奇矯な振る舞いを好むカブキ者としても知られた。

なお利益に関する一次史料はほとんど存在しないため、歴史学などの学術的視点からの研究はあまり行われておらず、事跡に不明な点が多い。
現代の知名度・評価は後述のとおり小説やマンガ等の影響が大きい。

通称は宗兵衛、慶次郎、慶二郎、啓次郎など。
彼を題材とした漫画「花の慶次」の影響で前田慶次という名前で呼ばれることも多い。

諱は利益の他、利太(としたか)あるいは利大(としひろ、としおき)、利貞(としさだ)、利卓(としたか)など複数伝わっている。
また浪人時代は穀蔵院飄戸斎(こくぞういん・ひょっとさい)と名乗った。
妻は前田安勝の娘で、間に一男三女をもうけた。
嫡男の前田正虎は従兄弟の前田利常に仕えた。
娘は、戸田方勝の妻、北条庄三郎(北条氏邦末子)の妻など。

生涯

生年に関しては1533年、1540年、1541年、1542年、1543年、1552年、1555年など様々な説があるが1533年説・1541年説が主流である。

養父の前田利久は、前田利家の長兄で、尾張国荒子城主(愛知県名古屋市中川区)であった。
利益の実父は織田信長の重臣滝川一益の一族(従兄弟あるいは甥)である滝川益氏(たきがわますうじ)か滝川益重(たきがわますしげ)とされ、実母が利久に再婚したためその養子になったのだとも言われる。

しかし、1567年に信長の命令により、養子の利益が荒子城を継ぐよりも実弟の前田利家が継ぐべきであるという名目によって利久は隠居させられ、利家が荒子城を継いだ。
このため利益ははじめ養父に従って荒子を離れた。
後に累進して能登国一国を得た利家を頼り、義理の叔父にあたる利家に仕えた(1580年頃)

石山軍記に、石山本願寺攻めの際に、信長の大旗を奪い返すとある。

(その間10年ほどの消息は全く不明である。
隆慶一郎の小説「一夢庵風流記」では、滝川一益に仕えていたとするが、あくまで作者の推測および創作である)。
1584年の小牧・長久手の戦いでは佐々成政に攻められた末森城の救援に向かう。
その後、佐々方から寝返った阿尾城の城代に任じられ、同城奪還に向かった神保氏張らの軍勢と交戦した。

利久死後の1590年頃、利家と仲違いして前田氏を出奔する。
このとき、利家をだまして水風呂に入れ、名馬一覧松風(利家の愛馬「谷風」とも)を奪って出奔したという逸話が残る。

出奔後は京都で浪人生活を送りながら、里村紹巴・里村昌叱父子や九条稙道・古田重然ら多数の文人と交流した。

後に上杉景勝とその重臣直江兼続の知遇を得て、景勝が越後国から会津藩120万石に移封された1598年から関ヶ原の戦いが起こった1600年のまでの間に上杉氏に仕官し、兼続の与力として1000石を受けた。
関ヶ原の役に際しては、上杉景勝が東軍についた最上義光と戦った長谷堂城の戦いに出陣して功を立てた。

西軍敗退により上杉氏が30万石に減封され米沢藩に移されると、これに従って米沢藩に仕え、米沢近郊の堂森(現、米沢市万世町堂森で慶次清水と呼ばれる)に隠棲した。
隠棲後は兼続とともに「史記」に注釈を入れたり(ちなみに直江兼続が所有していた「史記」は今現在国宝に指定されているが、こちらに注釈を入れていたかについては不明)、和歌や連歌を詠むなど自適の生活を送ったと伝わる。

1612年に堂森で没したとされ、同地に供養塔が残るが、一方で加賀藩藩主前田利長の命によって大和国刈布に隠棲し、1605年にその地で生涯を終えたなどの異説もある。

後世の評価

隆慶一郎の時代小説「一夢庵風流記」およびそのコミカライズ作品である「花の慶次 ―雲のかなたに―」などから影響を受け、人々に豪腕な武人・超一級の戦人のように印象づけられた。
平成以降における「傾奇者」という言葉とこの歴史上の人物の知名度・イメージについては、これら作品群の存在が過半を担っているといっても過言ではない程である。

この影響があり、更に近年、シミュレーションゲームやアクションゲームでは、武芸に精通したサムライ、あるいは敏腕なる剣豪などとして登場することが多くなった。
上述した通り利益に関する一次史料はほとんど存在しない事もあって、恵まれた体格と優れた槍術があったと、長谷堂の戦いで伝えられている活躍の話が誇張されている節はある。
また、現在の創作物での描写には明らかに誇大表現といえる部分も無くはない。
だが、戦場にあっては長谷堂の戦いの様な逸話を残し、一方で古今典籍に通じ文人との交流を好んだ文武両道の人物というイメージは、その戦歴や『前田慶次道中日記』などの数少ない資料から得られる人物像と照らし合わせて見る限りでは、極端に外れてはいない。

山形県米沢市にある宮坂考古館に甲冑等の遺品が展示されている。

著書

『前田慶次道中日記』(米沢市指定文化財、市立米沢図書館所蔵)
慶長6年(1601年)10月15日 (旧暦)に京都を発ってから同年11月19日 (旧暦)に米沢へ着くまでを記した道中日記で、文中には本人が詠んだ俳句・和歌なども挿入しつつ、道中の風俗を詳しく書き残している。
この日記は当時の風俗を伺う史料として、また利益の教養の高さを示す史料として評価されており、米沢図書館より関連資料・活字を併録した影印本が出版されている。
なお三一書房の「日本庶民生活史料集成」にも翻刻文が所収されている。

[English Translation]