前田玄以 (MAEDA Geni)

前田 玄以(まえだ げんい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
豊臣政権における五奉行の1人であり、丹波亀山藩の初代藩主である。

生涯

天文8年(1539年)、前田基光の子として美濃国(現在の岐阜県)で生まれる。
はじめ尾張国小松原寺の僧侶であったが、後に比叡山延暦寺に入った。
しかし織田信長に招聘されて織田氏の家臣となった。
後に信長の命令でその嫡男・織田信忠付の家臣となる。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変に際しては、織田信忠と共に二条御所にあったが、信忠の命令で信忠の嫡男・三法師(のちの織田秀信)を引き連れて京都から脱出して美濃岐阜城、そして尾張清洲城に逃れた。

天正11年(1583年)から信長の次男・織田信雄に仕え、信雄から京都所司代に任じられたが、天正12年(1584年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)の勢力が京都に伸張すると、必然的に秀吉の家臣として仕えるようになった。
豊臣政権において京都所司代として朝廷のと交渉役を務め、天正16年(1588年)の後陽成天皇の聚楽第行幸では奉行として活躍している。
その一方で寺社の管理も任され、かつて僧侶だったためにキリシタンを弾圧したりしたが、後に弾圧ばかりではなく融和的な政策も採用している。

慶長3年(1598年)、秀吉の命令で豊臣政権下の五奉行の1人に任じられた。
秀吉没後は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力し、徳川家康は会津征伐を起こそうとしたときも反対している。
慶長5年(1600年)、石田三成が大坂で挙兵すると、玄以は豊臣秀頼の後見人を申し出て大坂に残り、西軍に加担し、家康討伐の弾劾状に署名したにも関わらず、家康に三成の挙兵を知らせたりするなどの内通行為を行なっている。
また、病気を理由にして戦場には出陣しなかった。
これらの行為により、関ヶ原の戦いの後は改易されず、丹波亀山5万石の本領を安堵され、その初代藩主となった。
慶長7年(1602年)5月20日に死去。
享年63。

長男の秀以は前年に早世していたため、次男の茂勝が後を継いだ。

人物・逸話

信長・信忠父子からは思慮深く私欲の無い性格だったことから、信任が厚かったとされている。

寺社政策でキリシタンを弾圧したが、後にキリシタンに理解を示し、秀吉がバテレン追放令を出した後の文禄2年(1593年)には隠密裏に京都でキリシタンを保護したりしている。
また、インド総督ともキリシタン関係で交渉したことがあったとされている。
ちなみに玄以の2人の息子は、この影響でキリシタンになっている。

同じ五奉行の増田長盛が同じく大坂城に留守居役として残り、大坂方(西軍)の情報を提供して家康に内通したにもかかわらず、関ヶ原の戦い後に所領を没収され改易されたのとは対照的である。
玄以の持つ朝廷とのつながりを利用するため、家康に優遇されたものと思われる。

[English Translation]