勅使河原蒼風 (TESHIGAHARA Sofu)

勅使河原 蒼風(てしがはら そうふう、1900年12月17日 - 1979年9月5日)は、華道草月流の創始者。
1927年草月流を創流。
勅使河原霞、勅使河原宏の父。
現在の家元勅使河原茜の祖父。

来歴・人物
華道において斬新な手法を多く提供し「花のパブロ・ピカソ」と呼ばれた(1955年パリ個展の盛況で、フランスのフィガロ、米タイム (雑誌)等でそう賞賛された)。
一部、評論家には華道家ではなく総合芸術家であるとする意見もある。
既存の華道の世界において重要な型を否定、自由な活花を提唱したため異端視された。
しかし1957年、フランスから来日した前衛芸術の評論家ミシェル・タピエが蒼風の作品を絶賛し世界に紹介したことにより国際的な評価が高まるとともに日本でも認知されるようになる。
蒼風の個展に感激したサルバドール・ダリに自宅に招かれ、流木のオブジェを制作し、ダリと談笑する映像が残されている。

『いけばなは生きている彫刻である』と提言する蒼風は、日本のいけばなを世界に発信した第一人者といえる。
戦後、マッカーサー元帥夫人をはじめ米軍将校夫人にいけばなを指導。
1952年ニューヨーク個展をはじめ、世界各国で展覧会やデモンストレーションを精力的に行った。
デモンストレーションは草月流特有のもので、観客側を正面として、観客に向かい作品の背後から手探りでいけていく「後ろいけ」によって行われる。
1960年、フランスの芸術文化勲章、1961年にはレジオン・ドヌール勲章、1962年には芸術選奨を受賞。
創作はいけばなに留まらず、彫刻、絵画、書にも亘る。

彼は以下のように発言している。
「若しこの世の中に、植物が一つもなかったとしたらどうだろう。」
「どっちを見ても花はない。」
「そういうとき私たちは、一体何を活けるだろう。」
「私は、そこに石があったら石、若しくは土があったら、土を活けるだろう」
著書「花伝書」にも記されている。
花が手に入りにくい時代にもあらゆる素材で作品を手掛けた。
蒼風の言葉は、花がいけばなの作品となった時に、作り手の人となりを露わにするものであることを表している。
『花は、いけたら、花でなくなるのだ。』
『いけたら、花は、人になるのだ。』

勅使河原蒼風「草月五十則」部分

第49則 新、動、均、和、の四原則。線、色、魂、の三拍子

第50則 見る目と、造る手と、片寄らぬ精進

草月流 家元継承年

初代 勅使河原蒼風 創流1927年〜1979年

第二代 勅使河原霞 1979年〜1980年

第三代 勅使河原宏 1980年〜2001年

第四代 勅使河原茜 2001年〜

2009年2月15日、蒼風夫人、勅使河原葉満(てしがはら・はま)が105歳で他界した。

[English Translation]