勧修寺経広 (KAJUJI Tsunehiro)

勧修寺 経広(かじゅうじ つねひろ、慶長11年11月27日 (旧暦)(1606年12月26日) - 貞享5年9月13日 (旧暦)(1688年10月6日))は、江戸時代の公家(公卿)。

堂上家(家格は、名家 (公家)、藤原北家高藤流甘露寺支流)である勧修寺家の17代当主。

経歴

参議・坊城俊昌の子、はじめ、坊城俊直。
権大納言・勧修寺光豊(または、右兵衛佐・勧修寺教豊)の養子。
母は豊後守・松倉重政の娘。
正室は日向守・水野勝貞(備後福山藩主)の娘。
継室は徳永昌純(旗本)の娘。
実子に、権大納言・勧修寺経敬、権中納言・穂波経尚(穂波家家祖)、松平経高(高松藩士・松平甚五右衛門の養子)など。

寛永8年(1631年)1月12日、参議に叙官。

明暦4年(1658年)7月10日、武家伝奏を務める。

寛文12年(1672年)6月8日、出家し紹光と号す。

極官極位は、正二位権大納言。
一字名を「干」と称し短冊を多く残す。

[English Translation]