勧修寺経顕 (KAJUJI Tsuneaki)

勧修寺 経顕(かしゅうじ つねあき、永仁6年(1298年) - 文中2年/応安6年1月5日 (旧暦)(1373年1月29日))は、南北朝時代 (日本)の公家(公卿)。

堂上家(家格は、名家、藤原北家高藤流甘露寺支流)である勧修寺家の初代当主。

経歴
父は、権中納言・坊城定資。
母は右少将・四辻隆氏の娘。
勧修寺家の祖で、芝山内大臣とも勧修寺内大臣とも称される。

1329年(元徳元年)蔵人頭に任じられ、翌1330年(元徳2年)には参議に任じられた。
1340年(暦応3年/興国元年)に権大納言となり、2年後の1342年(康永元年/興国3年)に権大納言を辞しているが、相応の地位が確保された。

正平一統の際に宮中の混乱を沈め、失意の二条良基を叱咤して後光厳天皇の擁立を画策した。
1370年(応安3年/建徳元年)内大臣(従一位)に任じられているが、翌年には辞職している。
北朝方の天皇であった光厳天皇・後光厳天皇両天皇の信任が厚く、北朝方の重鎮として活躍した。

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