北条重時 (HOJO Shigetoki)

北条 重時(ほうじょう しげとき)は、鎌倉時代前期の北条氏の一門。
鎌倉幕府執権北条義時の三男。
母は正室の姫の前。
鎌倉幕府連署。

生涯

承久元年(1219年)に22歳で小侍所別当就任。
寛喜2年(1230年)3月、病となった甥の北条時氏の後任を受けて鎌倉から上洛し、京都六波羅探題北方に就任。
以降17年間六波羅の最高責任者となる。

仁治(1242年)の幕府による後嵯峨天皇擁立の際には、重時の同母妹を妻としていた土御門定通と連携して工作が行われた。
同年に兄の3代執権北条泰時が重病となると、六波羅探題南方の従兄弟北条時盛と共に急ぎ鎌倉へ下った。
泰時が没すると重時は六波羅に帰任したが、時盛は鎌倉に留まった。
そのため、探題は重時のみとなり、最後の5年間は重時単独で任に当たった。

寛元4年(1246年)、宮騒動により前将軍藤原頼経が京へ強制送還される。
この年の8月、重時は後嵯峨上皇院司葉室定嗣を六波羅に呼び、5代執権となった北条時頼からの書状として、事件に関与した九条道家父子の更迭を後嵯峨上皇に奏上するよう要請し、幕府と上皇の仲介を行っている。

宝治元年(1247年)に執権時頼と外戚の安達氏らが三浦氏を滅ぼした宝治合戦後、50歳の重時は時頼の要請により鎌倉へ戻る。
叔父北条時房死後に空席となっていた連署に就任し、時頼を補佐した。
六波羅探題北方は子の北条長時が就任した。
重時の娘は時頼の妻となっている。
康元元年(1256年)に出家し、引退後は極楽寺に隠居した。
連署は弟の北条政村が就任した。
同年執権時頼が病で出家した為、6代執権には子の長時が就任している。
弘長元年(1261年)に死去、享年64。

政治姿勢は浄土宗の影響もあり撫民を基礎としたものであり、当時の幕政に明確な統治をもたらしたとする評価がある。
和歌などの文化的活動も行い、『千載和歌集』にも歌が収録されており、藤原定家とも親交があったとされる。
著作に家訓として残した『極楽寺殿御消息』、『北条重時家訓』などがある。

経歴

※日付は旧暦
承久元年(1219年)7月、幕府小侍所別当に就任。

承久2年(1220年)12月15日、修理権亮に任官。

貞応2年(1223年)4月10日、従五位下に叙し、駿河守に遷任。

寛喜2年(1230年)3月11日、小侍所別当から六波羅探題北方に異動。

嘉禎2年(1236年)11月22日、従五位上に昇叙し、駿河守如元。

嘉禎3年(1237年)11月19日、相模守に遷任。

暦仁元年(1238年)7月20日、正五位下に昇叙し、相模守如元。

寛元元年(1244年)閏7月24日、従四位下に昇叙し、相模守如元。

寛元2年(1245年)6月22日、従四位上に昇叙し、相模守如元。

宝治元年(1247年)7月27日、六波羅探題北方から幕府連署に異動。

建長元年(1249年)6月14日、陸奥守に転任。

康元元年(1256年)3月11日、連署を辞し、出家する。
法号:極楽寺観覚。

弘長元年(1261年)11月23日、卒去。

[English Translation]