千葉重太郎 (CHIBA Jutaro)

千葉 重太郎(ちば じゅうたろう、文政7年(1824年) - 明治18年(1885年)5月7日)は、江戸時代の北辰一刀流の剣客。

鳥取藩士。
桶町千葉道場(小千葉)の創始者千葉定吉の息子。
坂本龍馬は門人にして友人。
また妹の千葉さな子は坂本龍馬の婚約者(妻とも)である。

諱は一胤(かずたね)。
坂本龍馬と勝海舟を結果的に引き合わせることになった人物である。

嘉永6年(1853年)に父・定吉が鳥取藩の剣術師範に就任し、鳥取藩江戸屋敷詰となったため道場は重太郎に任されることとなる。

このころ、土佐から江戸に出てきた坂本龍馬が千葉道場に入門しているので、龍馬に剣術指南をしたのは主に重太郎であったと考えられる。

さらに万延元年(1860年)には重太郎自身も鳥取藩に仕官。
重太郎は鳥取藩士として江戸政界に関わる中で勝海舟の開国論に反感を抱くようになる。

文久2年1862年、龍馬を伴い勝邸を訪れ、これを暗殺しようとしたが失敗。
後年の戊辰戦争では鳥取藩の歩兵頭として一隊を率いて出陣、維新後は鳥取県・北海道開拓使・京都府の官吏として活躍した。
墓は東京都豊島区池袋の雑司ヶ谷霊園に現存している。

重太郎の剣士としての力量については説が定まらないようであるが、重太郎が道場を任されるようになった後にも桶町道場の人気は衰えていないようなので、相当の実力を持つ剣客であったことは言を待たない。
本家筋にあたる玄武館道場が千葉道三郎の代になって衰退した例もあり、幕末期は師範の実力が道場の盛衰に直結する時代であったと推測さる。
この観点からも重太郎の実力の程が分る。

創作作品では、司馬遼太郎作「竜馬がゆく」から三谷幸喜の「竜馬におまかせ!」まで幅広いところで出現している。
多くの作品において明朗快活な好青年として描かれる。

また、「千葉道場の跡取り」というイメージからか、父共々鳥取藩士であったことは描かれないことが多い。
(海舟暗殺未遂事件の時には既に鳥取藩に仕官していることに注意)。

[English Translation]