和泉元彌 (IZUMI Motoya)

和泉 元彌(いずみ もとや、本名山脇 元彌(やまわき もとひさ)、1974年(昭和49年)6月4日 -)は 狂言師。
東京都板橋区出身。
血液型ABO式血液型。
身長168cm(公称は171cmだったが、アッコにおまかせの身長測定で発覚)。
妻はタレントの羽野晶紀。

明照幼稚園年少部、青山学院幼稚園・初等部・中等部・高等部から、1993年、青山学院大学文学部日本文学科に入学。
2001年3月、8年がかりで卒業。
株式会社和泉宗家取締役・和泉流宗家宗家会在籍。

狂言師

1歳半より父・和泉元秀の元で狂言を学び、1977年、3歳の時に「靫猿」で初舞台を踏む。
9歳で「三番叟」を、10歳で「奈須与市語」、16歳で「木六駄」「釣狐」を披く。
1994年、秘曲「花子」を披く。
1998年に一子相伝の秘曲「狸腹鼓」を披く。

1995年、父の死後、商標登録し「和泉流二十世宗家 和泉元彌」を名乗る。
しかし、能楽協会・能楽宗家会・和泉流職分会及び東京地裁は、元彌を宗家と認めておらず、自称宗家である。
(後述・宗家継承騒動)

2002年、社団法人能楽協会から退会命令を受けて以来、能楽協会関連の舞台に立てず、能の間に演じる「間狂言(あいきょうげん)」を演じることは不可能となった。
現在は株式会社和泉宗家の主催する自主公演しか活動舞台がなく、歌やトークを交えたショー形式の狂言ライブと狂言教室が近年の主な活動である。
2005年の愛知万博(愛・地球博)や中華人民共和国での公演などにも狂言師として出演したが、現在の公演数は一時期に較べると減少している。
国立能楽堂での公演も稀となり、自宅の稽古場(敷舞台)を会場にして公演を行ったこともある。

タレントとして、日本放送協会の大河ドラマ「北条時宗」や、プロレス等、狂言以外の芸能活動も行うが、各種騒動で人気低迷。
2008年春以降、羽野のTV露出の影響から元彌もTV番組出演が増え、歌の発売も行う等、タレント活動を再開。

プロレスラー

2005年10月、記者会見を開き、「今後は狂言の世界で培った『狂言力』を生かし、本場アメリカのエンターテイメントプロレスに挑戦したい」と、電撃的にプロレス参戦を発表する。
2005年11月3日、横浜アリーナで開催のハッスル (プロレス)マニアでプロレスデビュー。

応援団として、和泉節子率いる「セッチー鬼瓦軍団」も登場。
「鬼瓦」とは、ある大名が鬼瓦を見て故郷の妻を思い出すという有名な狂言の演目。
「セッチー鬼瓦せんべい」(6枚1000円)は当日10分で完売した。

元彌は、「ダブルブッキングでも遅刻でもござらん。開場前からずっと上で待っておったのじゃ」と叫びつつヘリコプターの爆音とともに金色の派手な衣装で登場、満員の会場を沸かせた。

試合では、対戦相手の元WWE所属レスラー鈴木健想との攻防を展開。
途中、プロレスの師であるAKIRA (プロレスラー)の援護、健想の妻鈴木浩子のパウダー攻撃の誤爆を挿む。
最後に「チョップ」を連発してピンフォールを奪うというアングル (プロレス)を完璧に遂行。
元彌は、「あくまでエンターテイメントの一環で、プロレスではなく、『狂言』というエンターテイメントの延長である」と発言している。

「ハッスル」のようなアングル (プロレス)主導のプロレスは、エンターテイメントとしてファンの支持を得る特性がありプロレス興行として沸いた。
しかし、和田アキ子が「絶対ヤラセ。バカみたい」とコメントするなど、マスコミや世間一般での評価は低かった。
また、プロレスファンやプロレスマスコミなど関係者にも支持しない層が多く、限られた範囲でのプロレス活動しかできていないのが現状である。

元彌の家族

和泉流宗家一派の本名は山脇姓であるが、芸名として和泉姓を使用している。

和泉元秀(本名・山脇保之 1937-1995年 享年57)
元彌の父。
能楽師狂言方。
和泉流19世宗家。

幼名は三宅保之。
九世三宅藤九郎の長男で、次男は三宅右近。
6歳の時、和泉流17世宗家山脇元清の娘・ゆき子の養子となり、山脇保之へ改名。
芸名を和泉保之と名乗り、のち和泉元秀と改名。
(重要無形文化財総合認定)社団法人日本能楽会会員。

和泉節子(本名・山脇節子 1942年6月11日-)
元彌の母。
狂言プロデューサー。
株式会社和泉宗家代表取締役。
和泉流宗家宗家会理事長。
和泉宗家後援会理事長。
和泉流宗家記念館理事長。

岐阜県大垣市の出身、父は鉄工会社を経営する二代目社長。
母は戦国の軍師・竹中重治の子孫で、実家は造り酒屋を営む大地主であった。
大垣市立の小学校・中学校に学ぶ。
中学3年の3学期を前に、金城学院中学校・高等学校の欠員補充に合格し編入し卒業。
金城学院高等学校、金城学院大学短期大学部卒業。

元・大垣藩家老家の紹介による見合いで元秀に嫁ぐ。
挙式の媒酌人はかつて和泉宗家を召抱えていた尾張徳川家の19代当主で、元・華族(侯爵・貴族院 (日本)議員)の徳川義親である。

一時期は、フジテレビジョン「森田一義アワー 笑っていいとも!!」のレギュラー(2002.04.-2002.09. 月曜日) 等、テレビのバラエティー番組などに相次いで出演。
「セッチー」のニックネームで呼ばれているが、各種騒動や羽野晶紀別居関連の際、他者に対する攻撃的な発言をする姿がメディアで盛んに報じられた。
このためか、デヴィ・スカルノや美川憲一などは彼女を嫌っている。

羽野晶紀との結婚と別居
1998年1月、国際的な演出家ノノン・パディーリャが演出したシェイクスピアの戯曲ロミオとジュリエットで舞台初出演(渋谷シアターコクーン)。
主役のロミオ役を演じる。
この時ジュリエットを演じたのが劇団☆新感線の看板女優・羽野晶紀だった。

2001.12.21. 羽野の妊娠発覚・婚約会見
2002.01.. 仏前挙式
2002.02.. 板橋区役所へ入籍
2002.04.28. 長女・采明(あやめ) 誕生
2004.07.26. 長男・元聖(もときよ)誕生
2007.09.11. 夫妻の別居が各メディアにて報道。

元彌と母・節子は別居を否定し、晶紀夫人は母親の看病で実家に帰っているだけと説明していた。
しかし、9月26日には夫人や子供達の家財道具も運び出され、別居の事実が報じられた。
元彌は11月1日のテレビ番組で、心眼成就の為の別火(けがれを忌んで炊事の火を別にすること)で、芸事の上の儀式で別居していると弁明した。

2007年9月から晶紀夫人は子供2人と和泉家とは独立し別居生活を始めた。
12月22日の「オーラの泉」で別居の理由を「さまざまなバッシングや報道をされてしまう環境から幼い子供たちを守るため」と説明した。
晶紀夫人は11月11日には東宝芸能へ所属、5年ぶりに芸能界に復帰した。
その後、2008年早春から元彌がこの家に通い婚をし春より同居開始。
現在は二人の子供の幼稚園の送り迎えを元彌が日課とし、夫婦共々ブログにて近況を綴っている。

■2人の姉もプロの狂言師。

和泉淳子
長姉の和泉淳子(本名・山脇淳子から結婚後の姓不詳 1969-)は「狂言界史上初の女性狂言師」としてCMなどにも出演し、一躍話題の人となる。
株式会社和泉宗家の監査役。

2002年に長女・慶子(きょうこ)誕生。
2008年に長男・一秀(かずひで)誕生。
祖父の名前を一字貰い名付けられた。

三宅祥子
次姉の十世三宅藤九郎(本名・山脇祥子から三宅祥子 1972-)は9世三宅藤九郎の名跡を継いだ。
この名跡は叔父の三宅右近(九世三宅藤九郎の次男)に譲られると目されていたが、元彌の父であり右近の実兄でもある和泉元秀と確執があった。
結局、三宅藤九郎の名跡は山脇祥子により商標登録され現在に至る。
三宅と名乗っているが実際は山脇家で節子と共に暮らし独身。
株式会社和泉宗家の取締役。

1987.12.24. 山脇祥子「和泉流三宅藤九郎」「狂言師三宅藤九郎」を商標登録出願
1988.04.27. 養女として三宅家へ、三宅祥子に改名
1990.01.01. 九世三宅藤九郎が三宅庄市を襲名
1990.11.. 三宅祥子が十世三宅藤九郎を襲名 襲名披露公演
1990.12.19. 三宅庄市(九世三宅藤九郎)死去

十世の名跡の予定であった三宅右近(九世三宅藤九郎の次男)が、父・九世三宅藤九郎家の家系を実際には守り伝統的な狂言を受け継いでいる。
和泉節子の著書によると1987年に行方不明になったと書かれているが、トット基金付帯劇団の手話狂言の指導等で活躍している。

■2人の子供も次世代の狂言師。

和泉采明
元彌の長女・和泉采明(本名・山脇采明 2002年生)は、淳子の長女・和泉慶子(2002年生)と共に2006.02.26.国立能楽堂で初舞台を踏み、株式会社和泉宗家の子方として活動を行っている。

和泉元聖
元彌の長男・和泉元聖(本名・山脇元聖 2004年生)は両親の別居騒動から初舞台が遅れていたが、2008.06.30 元秀奉納稽古で舞台に立った。
株式会社和泉宗家の子方として、2008年12月に初舞台を踏む予定。

和泉家では既に和泉元聖(もときよ)の名で21世宗家継承者と呼称している。
元彌と羽野は日常頻繁に采明と元聖の顔写真をウエブ上に掲載し子供達のPR活動を行っている。

各種トラブル

和泉元彌は各種トラブルが多い人物である。

和泉流宗家継承騒動

1995年6月22日、父・和泉元秀が公演中に倒れると、親子で出演を予定していた27~29日の狂言ライブを、即座に宗家襲名披露公演とし、21歳の元彌が「和泉流二十世宗家」を名乗る。

1995年6月30日、父・和泉元秀が他界すると、この公演が宗家襲名披露として、後見人を立てるなどの手続きがなく能楽宗家会の了承も得てない事が判明し、社会的に問題化。

和泉流職分会は、会員53人中48人が元彌の宗家継承に反対。
「芸が未熟なので、先輩に学んで実力をつけてからではどうか」と提案もされた。
しかし、和泉家側はこれを拒否し「和泉流二十世宗家 和泉元彌」を商標登録した。

一方的に「宗家」を名乗り「和泉流宗家」の商標登録行為は、和泉流職分会の更なる反発を招き、元彌に話し合いを呼びかけたが和泉家側が拒否し続け、対話解決を無視し続けた。
加えて、ダブルブッキングやドタキャン(後述)など、和泉元彌の公演トラブルで狂言の社会的信用を失墜させたこと及び、能楽宗家会から保留裁定が出ているにもかかわらず商標登録を断行した行為に和泉流職分会は業を煮やした。
その結果、和泉流職分会は、2002年会長・野村萬を筆頭に48人の連名で、社団法人能楽協会(東京・高田馬場)に元彌の除名を申請。

2002年7月3日、能楽協会は定例理事会で「和泉元彌審査会」を設置。
7月10日、元彌に話し合いを求める書面を送ったが回答は無かった。
更に「回答はファクスでもいい」との求めにも応じなかったため、8月2日、元彌抜きで除名手続きを進める方針を明らかにした。

一方、能楽協会からの求めを無視した元彌は、能楽協会に自身の除名申請した職分会幹事を、「7月31日付けを以って破門」とする内容証明を送付し、制裁に出た。
文面は「和泉流宗家として現在の流内の混乱を心配している…」から始まり、「和泉流二十世宗家 和泉元彌」を名乗った。

2002年10月21日、能楽協会は臨時総会を開催、総会の決議で1100対26 という圧倒的大差で、元彌の「退会命令」処分を決定した。
これに対し、元彌は右翼の活動家である朝堂院大覚を事態に介入させるなどの動きを見せた。

2002年10月30日、元彌は「意見を述べる場などを設けていない不当な退会処分」とし、能楽協会を相手に損害賠償と退会処分取り消しを求め、東京地裁に提訴したが和泉家側の主張は1審2審とも退けられた。
「能楽協会幹部の『(元彌は)和泉流二十世宗家ではない』との発言は不当」などとする元彌側の主張は、東京地裁は1審2審とも「協会内では原告は宗家と認められていない」と指摘、退会命令も適法と判断した。
これにより元彌の能楽協会退会は確定した。
また、この裁判では、節子が虚偽の証言をしたとして能楽協会に解決金300万円を支払い謝罪した。

2006年6月9日、最高裁判所も原告の請求を棄却する判断を下した。
これにより、和泉元彌は能楽協会に属せず、登録商標「和泉流二十世宗家 和泉元彌」と「株式会社和泉宗家」として「宗家」を名乗っているが、社会的には和泉流宗家として認められていない。
従って、和泉流の能楽師に対する宗家としての権限行使は、一切認められていない。

よって、和泉流は1995年の元秀死去後、能楽に関する決め事については、和泉流職分会 (会長:野村萬、代表幹事:井上菊次郎) における会員合議制を取り、和泉流宗家を置いていない。

また能楽協会・能楽宗家会・和泉流職分会とも、元彌を和泉流宗家とは認めず、元彌は、実態の無い名ばかりの「和泉流二十世宗家」となっている。

ダブルブッキング騒動

2001年、日本放送協会大河ドラマ「北条時宗」等のテレビ出演で元彌の人気が急騰すると、全国から狂言の公演依頼とテレビの出演依頼が急増する。
しかし同時に、ダブルブッキングやドタキャンが相次いだ。

2002年2月24日、長野県丸子町文化会館での公演は、夜のソルトレイクシティオリンピックにテレビ出演のため早退。
また同年3月19日、北海道音更町文化センターでの公演は、当日になって発熱を理由にドタキャン。
会場窓口には苦情が相次いだが、病気のはずの本人は同日夜、TBSの生放送番組(世界フィギュア長野大会)に出演し、疑惑を呼んだ。

こういったトラブルは後を絶たず、テレビのワイドショーやスポーツ紙は連日、ダブルブッキング、ドタキャン、遅刻、早退といった和泉家のマネージメントの問題や、時間へのルーズさを取り上げた。
このような騒動の影響により、2001年3月から元彌がイメージキャラクターを務めていた「あいおい損保」のCMは、2002年5月に打ち切られた。

駐車違反事件

2005年11月24日、元彌は、2年半の間に計6回にわたる駐車違反の出頭要請に応じなかったとして、道路交通法違反の容疑で警視庁に逮捕された。
警視庁交通執行課に出頭した元彌は2時間半ほど拘束された。
その場で東京簡易裁判所から略式命令を受け、罰金1万円を払って即日釈放となった。
本人は「忙しくて時間がなかった」とコメント。
翌25日、報道各社は「狂言師でプロレスラーの和泉元彌容疑者」「和泉狂言師」などといった肩書きを使ってこのニュースを報じた。
数ヵ月後に発売された女性雑誌において「全て私の責任であり、弁解の余地もない」と自らの非を認めている。

所得隠し疑惑

2006年6月27日、和泉元彌らの公演に関する事業運営を行う会社「株式会社和泉宗家」が、国税庁に2003年までの5年間で2億円以上の申告漏れを指摘された。
そのうち約1億5000万円は簿外口座に収入の一部を入れるなどの悪質な所得隠しであったという。

「株式会社和泉宗家」の代表取締役である節子はこの問題に関し、「税務調査が入り見解の相違があったことは事実だが、簿外口座などは存在しない」として、この疑惑を全面的に否定しているが、追徴課税は、重加算税などを含め1億円を越すといわれた。
自宅兼事務所は、2006年6月29日に板橋区から差し押さえを受け、2006年10月27日には東京国税局から差し押さえを受けて、金銭的に厳しい状況にあることが明らかとなった。

接触事故

2006年7月13日、元彌が運転する車がファミリーレストランに駐車しようと左折したところ、後ろから走って来たバイクと接触。
運転していた男子高生に1週間の軽傷を負わせた。
警察には和泉が通報。
目白署より業務上過失傷害容疑で書類送検処分となった。
19日、狂言公演終了後の謝罪会見では男子高生が同席。
「17日に自宅に和泉が謝りに来た」「和泉とは以前から顔見知り」「心配してもらったり、狂言に招待してくれて嬉しい」と矢継ぎ早に説明した。
被害者と加害者が同席という前代未聞の記者会見に現場は騒然となった。

「元彌のアスナロぶろぐ」炎上

2008年6月15日、株式会社ルーフ及び株式会社和泉流宗家主催により、四川大地震チャリティーのための狂言が行われ、舞台には和泉流宗家一門が並んだ。
その様子は当日、ブログにおいても経過も含め時系列で報告されブログ読者の注目を大きく集めた。
2008年6月17日には中国大使館に募金を届けた様子を紹介し、後日公式な募金金額の報告について公表する旨を2008年6月20日 002213に公言。

しかし、その後、金銭報告の音沙汰がないことから、日を増すごとに一部の読者から不満の声があがり、8月に入るとこの件でコメント欄に多くの声が寄せられるようになった。
このため、2008年8月8日 191458 <中国四川大地震チャリティーの報告> というタイトルで、公式な募金額の報告については「次週の月曜日には、報告ができるかとおもいます。」とした。
しかし、このコメント欄には、報告の遅れのルーズさや金銭の扱いの曖昧さに関し批判が多数あがり、210725 にはコメント欄が本人の手により全削除された。

また、公式な募金額の報告について、2008年8月8日 210725 <中国四川大地震チャリティー公演の報告について>「次回公演で報告をさせていただきます。広く報告させていただく事の難しさを実感いたしますが、努力いたします。」とした。
二時間前とは異なる発表であったため、対応の曖昧さや報告のぶれと揺れに対する指摘や疑念があがり、ブログが炎上する騒ぎになった。

元彌自身当初は“山脇元彌 本名で綴るアスナロぶろぐ”と構え、途中“和泉元彌のアスナロぶろぐ”に移行するなど、妻の羽野晶紀のような管理下の芸能人ブログでなく、一般人と同等の手作りブログ機能を採用していることに拘りをもって更新・管理を行っていた。
しかし、本件を期に読者コメントは“承認制”という形式となり、元彌が自己チェックを行いコメントを掲載している。
このため、コメントが激減した。

[English Translation]