問田亀鶴丸 (TOIDA Kikakumaru)

問田 亀鶴丸(といだ きかくまる)は、大内氏の一族。

大内義隆の子。
問田村(現山口市)で養育され、母方の祖父である内藤興盛が問田村で問田殿と呼ばれていたことから問田姓を称した。
天文_(日本)20年(1551年)の大寧寺の変で、父義隆・兄で嫡子の義尊が陶隆房(陶晴賢)に殺されたときは、隆房に助命されている。

その陶隆房は厳島の戦いで毛利元就に敗北する。
陶氏に擁立され大内氏当主となった大内義長も毛利元就に攻められ、弘治3年(1557年)4月に自害し、大内氏は滅亡する。

その年の11月10日に大内氏の遺臣である草場氏、小原氏、河越氏らによって亀鶴丸は大内氏当主として擁立され、挙兵し山口の障子ヶ岳城に立て籠もった。
しかし、毛利氏方についていた、亀鶴丸の叔父に当たる内藤隆春の急襲を受け、翌11月11日の妙見崎の戦いで敗北。
草場氏らは討死し、亀鶴丸は捕らえられて処刑された。

海路を逃れ、豊田幾之進と改名して酒造業を営み93歳まで生きたという伝承もある。

[English Translation]