因幡国造浄成女 (Inabanokuni no Miyatsuko Kiyonari no Musume)

因幡国造浄成女(いなばのくにのみやつこきよなりのむすめ、? - 延暦15年(796年)10月15日 (旧暦))は奈良時代から平安時代初頭にかけての人物。
父は因幡国造浄成。

経歴
因幡国造氏の一族で、因幡国高草郡の出身。
時期は不明だが、朝廷に釆女として貢上され、桓武天皇(山部親王、後の桓武天皇)に仕えた。

山部王の寵愛を受けた浄成女は、地方豪族出身者としては異例の昇進を遂げた。
宝亀2年(771年)正月、正六位上から従五位下に叙せられ、同年2月には同族の者数名と共に因幡国造姓を賜った。
また、同年12月には国造(令制国造)に任ぜられた。
山部親王の即位後も引き続きその寵愛を受け、延暦4年(785年)正月には従四位上に叙せられ、延暦13年(794年)7月には平安京に屋敷を造営するため稲が与えられた。

寵愛を一身に受けた浄成女は、桓武天皇だけでなく、周囲からも皇子女の誕生を期待されていたが、延暦15年(796年)10月15日、遂に産むことはなく没した。
最終的な官位は正四位上という顕位にまで叙せられており、桓武天皇の寵愛ぶりがうかがえると同時に浄成女の死は相当な衝撃と悲しみを桓武天皇に与えたことは想像に難くない。
一方、因幡国造一族はこれを背景に着実に勢力を増していき、寛弘4年(1007年)の因幡千里(千兼)殺害による勢力の衰退まで権勢を振るったとされている。

[English Translation]