土岐頼遠 (TOKI Yorito)

土岐 頼遠(とき よりとお、? - 興国3年/康永元年12月1日 (旧暦)(1342年12月29日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代 (日本)にかけての武将。
土岐頼貞の六男。

父と共に足利尊氏に仕えて各地を転戦した勇将で「ばさら」として知られる。
建武 (日本)3年(1336年)の多々良浜の戦いでは菊池武敏、同年の京都での新田義貞、暦応元年(1338年)の北畠顕家との美濃国青野原の戦い、さらに脇屋義助(義貞の弟)など多くの南朝 (日本)側の武将と戦い奮戦した。

青野原の戦いでは北畠顕家の奥州勢の大軍(『太平記』によると50万騎)を相手に幕府軍(『太平記』によると8万騎)が総崩れになる中で、頼遠は精兵1000騎を率いて鬼神のごとく奮戦して高名を立てた。

暦応2年(1339年)、父の死により家督を継いで惣領となり、美濃国守護に就任する。
その後も各地を転戦して武功を挙げたが、あまりに挙げすぎた武功をいいことに奢り高ぶることも少なくなく、康永元年(1342年)9月、笠懸の帰りに行き会った光厳天皇の牛車に対して、酒に酔っている勢いに任せて「院と言うか。犬というか。犬ならば射ておけ」と罵って牛車を蹴倒す(矢を射ったとも)という狼藉行為を行なってしまう。
これを知った尊氏の弟・足利直義は激怒して頼遠逮捕を命じる。
頼遠は一度は美濃に戻って謀反を計画するものの失敗した。
夢窓疎石のいる臨川寺に逃れるものの捕らえられ、同年12月に頼遠は京都六条河原にて斬首されてしまった。

婆娑羅大名には多かれ少なかれ朝廷などの旧来の権威を軽んじる風潮があったが、直義にとって光厳上皇は兄・尊氏の征夷大将軍任命とそれを行った光明天皇の即位に対する大義名分を保障する唯一の権威(治天の君)であり、その権威を揺るがす行為を容認することは室町幕府の正統性そのものを否定することにもつながりかねない事と考えていた。
そのため、兄・尊氏と室町幕府の正統性を守るためにも光厳上皇の権威の保持を功臣の生命よりも重んじたのである。

夢窓疎石の言によれば、頼遠は周囲からその軍才を認められており、ゆえに処刑される直前まで助命嘆願の声が上がり続けていたという。
その多くの戦功が認められていたからこそ、本来なら断絶するはずの土岐氏が存続を許され、その家督は甥の土岐頼康に継承されたのであった。

[English Translation]