坂額御前 (Hangaku Gozen)

坂額御前(はんがくごぜん、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将とされる女性。
越後国の有力豪族である城氏 (平氏)の一族で、父は城資国、兄弟に城資永、城助職(長茂)らがある。
名は板額、飯角とも。

生涯

城氏は有力な平家方の豪族であったが、治承・寿永の乱を経て没落、一族は潜伏を余儀なくされる。
『吾妻鏡』の建仁元年(1201年)には、越後国において坂額の甥に当たる城資盛(資永の子)の挙兵が見える(建仁の乱)。
これは坂額の兄の長茂(資茂とも)の鎌倉幕府打倒計画に呼応したものであり、長茂自身は程なく京において討ち取られるが、資盛は要害の鳥坂城に拠って佐々木盛綱らの討伐軍を散々にてこずらせた。

坂額は同時代の巴御前と並び称される程の武勇の持ち主であり、この際資盛を助け、反乱軍の一方の将として奮戦した。
『吾妻鏡』では次のように書かれている。「女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。」
「人挙て奇特を謂う。」
「この合戦の日殊に兵略を施す。」
「童形の如く上髪せしめ腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。」
「中たるの者死なずと云うこと莫し。」

しかし最終的には藤沢清親の放った矢が両脚に当たり捕虜となり、それとともに反乱軍は崩壊する。
坂額は鎌倉に送られ、将軍源頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕せしめた。
この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の浅利義遠は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾される。

坂額は義遠の妻として甲斐国に移り住み、後に男子一人浅利知義太郎をもうけ、同地において没したと伝えられている。

同時代に書かれた吾妻鏡では「可醜陵園妾(彼女と比べれば)陵園の美女ですら醜くなってしまう)」「件女面貌雖宜」、すなわち美人の範疇に入ると表現されているが、大日本史など後世に描かれた書物では不美人扱いしているものもある。
これは、美貌と武勇豪腕(弓)とのアンバランスを表現したものが誤解されてしまったと解釈される。

[English Translation]